いくら多くのオランダ人が英語が達者だとしても、オランダでは極力オランダ語を使って生活しようと決心した。これは幾つかの理由に基づく。
一つ目は、オランダの公用語はやはりオランダ語であり、この国の文化の土壌はオランダ語によって育まれたものであるため、オランダ語を理解しなければこの国の文化を真に理解することはできない、ということである。オランダ人同士は当然オランダ語で話し合い、街の標識や店にある商品もオランダ語で表記されており、オランダ人の生活はやはりオランダ語で成り立っているのである。
そうしたことを考えると、真の意味でオランダの文化に入り込んでいくためには、オランダ語を習得することが不可欠なのだ。そもそも、母国語がオランダ語の国において英語で乗り切ろうとするのは、オランダ文化に対する侮辱であり、尊敬の念をひどく欠いた生き方だと思ったのだ。
何も学術的な内容をオランダ語でしゃべれるようになる必要はないのだ。これは実際にフローニンゲン大学が多くのプログラムを英語で提供していることからも、オランダ語で高度な学術用語を操れる必要性は高くないことを暗に示している。
ただし、日常会話を英語で済ませようとするのは、オランダ人がこれまで長大な時間をかけて作り上げたオランダ語空間に対する侮辱と汚染であると思うようになったのだ。そうした理由から、まずはスーパーなどの買い物では極力英語を使わないようにし始め、オランダ語で日常生活を営めるように勉強を始めたのである。
二つ目の理由は、オランダ語の世界が持つ豊饒さである。私はオランダに来る前は、オランダ語の深さを軽んじていたのだと思う。というのも、オランダ語はオランダやベルギーの一部の地域、そして旧植民地国のスリナムなどを含めても、世界でわずか2000万人しか使用しないマイナーな言語だとみなしていたのだ。
しかしながら、その言語を母国語で話せる人数が問題なのではないのだ。量ではなく、その言語が持つ文化的な深さや質が重要なのだと考えを改めたのである。質的な観点で見た時にも、実はオランダ語はフランス語やドイツ語などの他の主要なヨーロッパ言語にも劣らない深さを持っているとわかったのである。
これに気付かせくれたのは、優れたオランダ語の書籍が街の古書店に多数置かれていることであったり、オランダ国内のアカデミックの世界においてもオランダ語で多数の論文が執筆されているということを目の当たりにしたことである。また歴史的に見ても、フランスの哲学者デカルトは、実はオランダで隠遁生活を始めてから旺盛な思索活動を開始し、実際にオランダ語で多数の哲学書を残しているのだ。
さらに、スピノザはオランダを代表する哲学者であり、彼の哲学思想を少しずつ理解したいと思っていた私にとって、やはり彼の原著を読む必要があるのだ。デカルトやスピノザを始め、多くの学者がオランダ語を用いて思索活動を行っていたという事実によっても、オランダ語が深い思索を担保する豊饒な言語であると思い知ったのだ。
三つ目の理由は、確かにオランダ人の「多く」は英語が達者なのだが、すべてのオランダ人が流暢に英語を話せるわけではないのだ。特に年配の方は、英語教育がそれほど浸透していなかった時代に教育を受けていた可能性が高く、年配者よりも若年者の方が英語を流暢に話せる。
感覚的には30代以下のオランダ人は間違いなくほぼすべての人が英語を流暢に喋れるが、それ以上の上の世代は職種によって英語力がまばらであるという印象を持っている。
これは最初の理由と重なっているかもしれないが、英語があまり達者ではないオランダ人に英語で話しかけると、相手はやはり少し身構えるようなのだ。これは相手の表情の筋肉や醸し出す精神エネルギーの流れが変化することを観察すれば一目瞭然である。
人は誰でも親しみのある言語空間に異質な言語が投げ入れられた時、身構えてしまうものである。これは日本語という単一言語を扱う日本人の中でも起こることだと思っている。これは自分の経験談であるが、私は小学校の低学年から高校までを山口県で育ち、山口弁で生活をしていたのだ。
私自身は東京生まれであり、その後の大学生活は東京で過ごしていたため、徐々に本来の標準語が支配的な言語になっていった。そうした状況の中、久しぶりに地元に帰ると、友人たちは私のしゃべる標準語に違和感を示すようなのだ。
こうした違和感はやはり、山口弁という特殊な言語空間に標準語という異質な言語が混入してきたために生じたものなのだと思う。こうした違和感を抱えた状態で身構えたままでは、お互いのコミュニケーションの中に不要な境界線が出来上がってしまうような感覚を覚えるのだ。
そうしたこともあり、短期的な目標としては、生活言語をオランダ語に徐々に移行していきたいと思う。また長期的な目標としては、スピノザの原著や自分の研究領域の論文をオランダ語で読みこなせるようになりたいと思う。どちらの目標も「深く生きる」という共通の考え方から派生していることに変わりはない。