今週の数日間は、フローニンゲンの街も夏らしい気温となっていた。だが、今日からは再び気温が下がる。そう考えると、気温が上がっていた先日の数日間というのは、夏という季節が最後の力を振り絞って今年の夏を締め括ろうとしていたように思われたのだ。
夏の命が終わり、秋の命が誕生する。いや、そもそもこの移りゆく季節というものには始まりも終わりもなく、絶えず流れ続けていくような永遠性を伴ったものであり、そこに命の誕生と死を見出すのはおかしなことかもしれないな、と思った。
絶えずゆっくりと変化していく季節の最中、いよいよ今週からフローニンゲンの街にも秋がやって来そうだという予感がしている。先週から今週にかけて、極めて微少な変化なのだが、自分の中で新しいサイクルが始まろうとしていることを知った。
このサイクルの始まりと新しい季節の始まりはほぼ合致している。人間も自然も絶えず変化を繰り返す存在という点においては共通しているらしい。自然の変化と足並みを合わせながら、自分の変化の歩みを進めていきたいと思う。
昨日、ここ六年間ほど愛用していた電子辞書が突然使えなくなってしまった。新しい電池に交換しても画面が映らないままであり、電子辞書が自身の寿命を全うしたことを知った。この電子辞書は米国時代の苦楽を共に過ごしてくれた存在であったため、単なる機械とは言え、それが突然いなくなってしまうということに対して、どうもある種の喪失感が湧き上がってくる。
機械にせよ生命にせよ、命が尽きるというのは本当に突然のことなのだと思わされる。何かが終わりを告げるというのは予期せぬ形で突然やってくるものなのだ。しかし、忘れてはならないのは、突然やってくる終わりの背後には、私たちの見えないところで常に何かが動き続けているということである。
別れを告げたその存在に真の意味で感謝をするというのは、まさにそうした私たちの目には見えないところで動き続けていたことに対して感謝をすることなのではないだろうか。目には見えない所に存在する絶え間ないプロセスを把捉していくことの中に、この世界を生きて行く上で重要な何かが潜んでいるように思うのだ。
戦友であった電子辞書に別れを告げたのとほぼ時間を同じくして、親友に第一子が誕生したとの報告を受けた。元気な女の子が誕生したそうだ。彼とは幼少時代からの長い付き合いであるため、彼がどのような気持ちで自分の子供の誕生と立ち会ったのかを想像することができ、彼が感じていたであろう感動と同じような感動を私も感じていたように思う。
もちろん彼の感動の方が数段深いものであったとしても、私も同じ色の感動を感じていたというのは不思議な気がする。多分これが感情を持つ社会的な存在としての人間の姿なのだろう。
彼の子供に会いに行くことも含め、今年は四年振りに実家で年末年始を過ごすために一時帰国したいと思う。自分を取り巻く外側と内側の世界で様々なものが終わりを告げ、様々なものが新たな始まりを告げることに対して若干当惑しているのは事実である。
しかしながら、仮にそれらの終わりと始まりを超越し包括するものがあるとすれば、それはプロセスであり、一つの大きな流れだと思うのだ。もしかすると、私たちの生や存在の本質は絶え間なく続く一連のプロセスであり、大きな流れなのではないだろうか。2016/8/27