感覚というものが、現実世界に生起する何らかの対象との接触であるならば、現象を知覚した時に何も感じられないのであれば、それは真にその対象に触れていないからではないかと思う。あるいは、私たちの感覚というものが心の発達と同様に質的な特性を帯びるのであれば、対象に対して何も感じないというのは、自分の感覚の質が対象物の質と齟齬をきたしているからではないかと思うのだ。
構造的発達心理学の観点からすると、まさに私たちの感覚は心の発達と同様に質的な進化を遂げていくのである。それゆえに、ある対象物と出会った時にそれに対して何も感覚が動かされることがなければ、それは自分の感覚の質的発達と対象物の質との間に乖離があると言ってもよさそうだ。
私は長らく、芸術全般、そして学問全般に関して、その存在意義もさることながら、真に優れたものとこれまで出会ってきていたとしても、一切の感覚的な高揚も共感も得られなかったのは、ひとえに、私自身の感覚の質が極めて未熟だったからに他ならない、と思うようになった。
そして、私は今日という日、明日という日に出会うであろう優れた対象物を見過ごしながら日々を送っていくことになるのだと思うと、少し詫びしい気持ちが湧き上がってくる。世界には、常に私の感覚の質を遥かに凌駕する対象物が存在しており、私の感覚の質がそこに到達するまでは、それらは決して何もこちらに語りかけてくれないのだ。
以上のことはライプチヒのバッハ博物館で痛感させられたことである。バッハの音楽作品と思想が自分の感覚を遥かに凌駕しており、あの時の私は感覚的に麻痺させられたような状態だったのだ。これは私の感覚の質がバッハの音楽という対象物の質に圧倒的に劣後していたことから生じた現象だと思う。
興味深いのは、こうした無感覚状態に陥ったことによって、私の感覚が更に前へ進もうとし始めたことである。要するに、バッハの音楽が私の感覚的進化を促す呼び水になったのである。より正確には、バッハの音楽と自分の感覚との乖離が生み出した麻痺状態が起点となって、私の感覚は進化の歩みを始めたのだと思うのだ。
また、自分の感覚が進化の流れに乗り始めると、自分固有の時間感覚というものがますます鋭敏になってくる。あともう一歩のところまで近づきつつあるが、生きていることの本質的な感覚が何なのかを未だ完全に掴んでいない自分がいる。
だが、自分が生きているという感覚の本質は、この自分固有の時間が自分の中に流れており、その流れの中に自分が存在しているという感覚に他ならないのではないかと思い始めている。生きていることの本質的な実感が何なのか分かりかねるというのは、私個人の問題にとどまらず、現代社会で生きる多くの人にとっても思い当たる節のある話ではないだろうか。
なぜならば、私たちの多くは自分固有の時間を発見することはおろか、自分の感覚すらも失われた状態の中で生かされているからである。私たちは自分固有の時間や感覚を喪失し、自分以外の何者かによって築き上げられた時間や感覚の中を生きることに埋没しているような気がするのだ。
喪失した自分固有の時間と感覚を取り戻し、生きていることの実感を再び掴み直す必要があることは、現代社会に対する反抗的な行為であるかのように思え、それはとても皮肉である。こうした反抗を企てることができなければ、私たちは自分の感覚や時間を通して、生きていることの本質を掴むことは決してできないだろう。