昨日の段階でパリ滞在の目的をすべて果たし終えたため、最終日はルーブル美術館をゆっくり巡ろうと思った。「ルーブル美術館は一日で見て回ることができない」という言葉は、各方面から頻繁に耳にするが、果たしてどれほど大きな美術館なのかを確かめてみたかった。
ホテルを早朝に出発し、40分ほど歩いてルーブル美術館の姿が見えてきた。この美術館が世界最大級と呼ばれる所以が一目でわかった。
親切にも入口の案内表示があったが、それでもこの広大な建物のどこに入口があるのかがわかりにくかった。それぐらいルーブル美術館は巨大なのだと、館内に入る前から痛感させられた。
美術館の中で見た作品の中には、もちろん言及したいものが幾つかあるが、そこで得られた感覚がほぼ未消化であるため、それを文章で書くにはまだ時期尚早であると思う。しかし正直な感想を述べると、ニューシャテルで訪れたデュレンマット美術館の方が私の心を打つ作品が多かったように思う。
もちろん、ルーブル美術館には貴重な彫刻や絵画が無数に所蔵されているのは言うまでもない。中でも紀元前の古代エジプト文明で用いられていたヒエログラフが刻まれた石板や古代バビロニアのハンムラビ法典が記された楔形文字に対して、今から数千年以上も前に誕生していた人類の言語空間に神秘的なものを感じさせられたのは確かである。
しかしながら、自分の心の奥に届いてくるような呼びかけをもたらすものは全体の中のごくごくわずかなものに限られていた。だがよくよく考えてみると、自分の心に響く作品がごくわずかなのは当然なのではないか、と思わされたのも事実だ。
現代的な大型書店に自分の心を打つ書籍がほとんどないのと同じように——古書店や大学図書館であれば、自分の心に響く書籍に出会える確率は少しばかり上昇するが——、そもそも自分の心を震撼させたり、高揚させたりしてくれる作品は少なくて当然なのだろう。
というのも、私たちが一人の固有の個に目覚めれば目覚めるほど、そうした個が真に揺るがされることはより一層難しくなるからである。
だからこそ、自己を震撼させるような作品に出会えるというのは奇跡的なことであり、大変貴重な機会なのである。そんなことを思った。
私はほぼ開館と同時にルーブル美術館に入館し、七時間弱の時間を使ってほぼ全ての所蔵物を見たが、この美術館では自分の心に響いた作品のみをじっくりと堪能するべきであるし、事前に見たいものがわかっているのであれば、その作品に多くの時間を費やして接するべきであると思った。
一つ大きな印象として残っているのは、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた傑作『モナ・リザ』の哀れな扱われ方だった。ルーブル美術館の最大の顔であるこの作品は、もちろん最も人目につく場所に目立つように飾られている。しかし、それが逆にこの作品の価値を貶めているように思えたのだ。
というのも、『モナ・リザ』の周りには溢れんばかりの人たちが群がっており、皆一様にスマートフォンやデジタルカメラで写真を撮っている。その姿に興醒めしたことに加え、これは全ての美術作品に当てはまるが、その作品を商業的な見世物として飾ることには常に大きな限界がつきまとうことに気づかされたのだ。
つまり、根本的な問題として、商業的な閲覧物としてどこかに飾られることによって、作品に本来不可避的に埋め込まれている表現者の実存性——人間の匂いのようなもの——がかき消され、その表現者の真の物語が骨抜きにされてしまうことに気づかされたのだ。
もし仮に『モナ・リザ』を商業的にどこかに飾らざるをえないとしても、ルーブル美術館ではダメなのだ。少なくてもダ・ヴィンチがこの絵を本当に描いた場所に所蔵しなければ、全く見えてこないものがあることを思い知らされたのだ。
何より、作品から魂が抜けてしまっているのだ。ダ・ヴィンチという巨匠が描いたこの作品に仮に膨大な経済価値が付与されていたとしても、このように飾られることによって、本来この作品が備えている芸術価値が貶められているのではないだろうか。少なくとも、そのような魂の抜けた作品は、魂の抜けた人間しか喜ばせないと思うのだ。
ニューシャテルで訪れたデュレンマット美術館の作品に私がなぜ大きく心を打たれたかというと、そこがまさにデュレンマット本人が作品を描いていた場所であり、日々の生活を送っていた家でもあったからだろう。
作品に込められた作者の絶望や希望などが生じた空間からその作品が切り離された場所に置かれた瞬間に、その作品の真の価値は一気に消え果ててしまうのだと思わざるをえなかった。
芸術作品も人間と同じく、場に対して履歴を書き残していく生き物であり、場から切り離されることによって生命力を略奪されてしまう生き物なのだ、ということを忘れてはならないだろう。