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323. 欧州小旅行記:ノートルダム大聖堂の妖気


デカルト通り39番地にある辻先生の旧宅の前でしばらく時間を過ごしていた。その場で立ち止まりながら、辻先生はどのような日々をこの街で過ごしていたのかについて想像を巡らせていた。『パリの手記』には記述されていないような先生の心の動きや表情を想像していたのだ。

繰り返しになるが、パリという街は、私がこれまで訪れた世界の他の大都市が持っていないような巨大な何かを内包しているのだ。そしてその巨大な何かは、間違いなく自分の精神を粉砕するような類いのものであることが容易に想像できてしまい、少しばかり恐ろしくなった。

そうした恐怖心を生み出す一つの建造物がノートルダム大聖堂であることがわかったのは、辻先生の旧宅からの帰り道だった。ノートルダム大聖堂は、森先生の日記にも辻先生の日記にもたびたび登場している。この建造物は私の想像以上に大きなものだったが、その物理的な大きさ以上に、それが放っている大きな妖気に得体の知れないものを感じ取ったのだった。

安易に近寄ると飲み込まれてしまうかもしれない

私のこうした感覚とは裏腹に、無数の観光客がこの建物の近くに群がっていることが遠目で確認できた。私は自分の存在が押し潰されない程度の距離を一歩一歩確認しながら、恐る恐るこの建造物に近寄って行った。しかしながら、結局この聖堂の中に入ることはできなかった。この聖堂に自分の存在を明け渡す準備ができていないと判断したからである。

このゴシック様式の世界遺産がなぜカトリック教会の中心的な聖堂の役割を果たしているのか、近寄ってみての感覚と先ほどからの感覚と合わせてすぐにわかった。この大聖堂は、私たち人間を取るに足らない存在であると思わせるような圧倒的な霊力を放っているからこそ、宗教的に重要な役割を果たせるのだと思った。

安易にこの聖堂に近寄ってはならないというのは、こうした巨大な霊力に自分が飲み込まれかねないという理由が最たるものであったのだとわかったし、私はまだまだ自分の小さな自我を手放したくないのだとわかった。

ふとフローニンゲンの街で以前感じていた「自己超出(記事299&305参照)」に関して、私は小さな自我をこうした巨大な外部からの働きかけではなく、小さな自我の内部からの働きかけでなんとかして自己超出しなければならない時期にいるのだと思ったのだ。

これらの巨大な建造物に安易に近寄ろうとせず、パリという街からも極力距離を取ろうと思ったのは、そういう理由からだったのだ。外部からの働きかけではなく、内部からの働きかけで現在の自己を乗り換えていくというのは面倒かつ厄介に思えるが、今の自分にとってそれは仕方のないことなのだと納得した。

パリでの滞在は残すところ明日のみとなったが、この街でも大きな課題を突きつけられたものだと思った。オランダに戻ってから咀嚼するべき経験が随分と増えたものである。

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