ニューシャテルから四時間弱の列車の旅を終え、ようやくパリ中心部のリヨン駅に到着した。列車を降りてプラットホームを踏んだ瞬間に気づいたのだが、パリへは初めて訪れたにもかかわらず、ここは馴染みのある感じの土地だとわかった。どちらも共に正しいと思うのだが、パリは私のことを全く相手にしていないし、私もパリのことを全く相手にしていないことから生じる馴染みやすさなのだ。
パリの街も私の方もお互いに冷淡に接しているから、逆に程よい距離感があって、私は違和感なくこの街に溶け込んでいった。こんなことをパリに来てまで確認する必要は全くなかったのだが、東京の都心部、ニューヨークのマンハッタン、ロサンゼルスのダウンタウン、そしてパリの街——自分の人生において極めて重要な経験を喚起してくれたサンフランシスコのダウンタウンのみ例外——をできるだけ避けたいと思うのは、結局のところ私が人が多いところでは心中穏やかではなくなるからだ。
それらの大都市はあまりにもドロドロとしたものがうごめきすぎているため、どうしても近寄りたくなくなってしまうのだ。いずれにせよ、今回パリに来たのは観光名所を巡るためではなく、敬愛する森有正先生(1911-1976)が教鞭をとっていたパリ大学東洋語学校と辻邦生先生(1925-1999)の旧宅を見ることであった。この二つの場所を訪れるためだけに、ニューシャテルから西回りでフランスを経由してオランダへ帰ろうと思ったのだ。
リヨン駅の直ぐ近くにあるホテルでチェックインを済ませ、荷物を軽くしてからパリ大学東洋語学校へ歩いて向かった。今回の旅行は本当に天候に恵まれ、この日も晴れであり、パリの街を快適に歩くことができた。
パリの街並みをしばらく眺めていると、パリ大学東洋語学校に到着した。あいにく今日は夏季休暇中であり、建物の中には入ることができず、森先生が教鞭をとっていた校舎の雰囲気を外観から感じ取ろうとしていた。
この建物から何かを感じたということはないのだが、森先生がパリで客死を遂げるまでの30年もの期間をこの街で過ごしていたということが自分には全く信じられなかった。というのも、このような街で落ち着いて思索活動に打ち込めるとはどうしても私には思えなかったからだ。
森先生の探求について言及する際に、一つ鍵となるのは「孤独」という概念だが、パリという街に来て気づいたことがある。それは、多様な人間が集まるパリだからこそ、そこで生活をするとなると、真の意味での孤独感に襲われる可能性があるのではないかということだ。
森先生はもしかしたら、パリという街で多くの人と出会うことによって、全ての人間が固有に持つ「個」という性質の根源には絶対的な孤独があるということに行き着いたのかもしれない。
パリという街には多様な人間が集まるからこそ、人間の本質には孤独があるということに気づき、孤独を通して思索を深め、普遍的な思想を森先生は打ち立てていったのではないかと思わされたのだ。そう考えると、多様な人間が集まる場所を極力避けようとする私は、逆説的であるが、真の意味での孤独を決して求めていないのではないか、と思った。
そのようなことを考えながら、私はパリ大学東洋語学校を後にし、辻先生の旧宅を目指して再び歩き出した。辻先生の旧宅がデカルト通りのどこかにあり、先生の名前が記されたプレートが掲げられているということを知っていたが、なかなか見つけることができなかった。
しばらくデカルト通りを歩き回り、ようやく先生の旧宅を見つけた時は少々驚かざるをえなかった。森先生と同様に、辻先生もこのような息が詰まりそうな住宅環境で自分の仕事に打ち込んでいたのか、ということを知ったからだ。辻先生の旧宅は非常に質素なものに映ったし、それとは対照的に旧宅の近くには途轍もなく巨大な歴史的建造物が存在していた。
自分がこうした環境で生活をしている姿を想像したくはなかったが、想像してみると、間違いなく気が滅入ってしまうと思ったのだ。パリはややもすると華やかに思われがだが、そうした華やかさの奥には、人間の精神を押し潰すような巨大な何かが横たわっていることがすぐにわかった。
その巨大な何かと対峙し続けたからこそ、森先生にせよ辻先生にせよ、強靭な思想が息づいた作品群を残すことができたのかもしれない、と思わざるをえなかったのだ。私がパリに来た意義は、やはりこの確認であった。