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318. 欧州小旅行記:早朝のニューシャテル湖を眺めて


これまでの旅を通じて見えないところで蓄積していた疲労を取るために、昨夜はいつもより幾分か早く就寝した。さらに起床時間も少し遅くし、睡眠時間を多く確保できたため、昨日までの疲労がほぼ消えたように思う。

ホテルの自室のカーテンを開けたところ、ちょうど朝日が出てくるところであった。いつもであれば部屋から朝日を眺めるだけで終わりにするところだが、今朝はそれだけで終わりにしたくなかったのだ。

「ニューシャテルの湖畔でこの朝日を眺めたい」という衝動的な気持ちに突き動かされ、パジャマ姿のままニューシャル湖へ向かった。ホテルからニューシャル湖までは目と鼻の先なのだが、なぜだかホテルを出た時に、数メートルほど小走りで湖畔に向かおうとしていた。

白銀と黄色を組み合わせたような朝日が湖面を照らしている。朝日と同じ色の一本の線が湖面を走っている。対岸は霧で覆われており、上空では飛行機雲が交差している。その飛行機雲をなぞるかのように、鳥たちが大空を飛んでいる。

静寂な早朝の時間にこうした美しい景色を眺めていると、自分の意識がどんどんと下へ下へ、深くへ深くへと動いていくのがわかった。ここで気づいたのは、それは意識の上昇現象ではなく、それは意識の下降現象と表現していいかのような感覚だったのだ。

意識の発達理論において、大いなる自然を眺めた時に喚起される意識状態というのは高次元のものとされる。つまり、本来は意識が上へ上がるという現象のはずなのだ。

だが、今の私にとってみると、自然の美に触れた時に喚起される意識状態というのは下への運動なのだ。記憶を遡ってみると、サンフランシスコ在住時代に、ヨセミテ国立公園に二度ほど行く機会があった。

どちらの時も共に、あの圧倒的な大自然の景観美を目の当たりにした時に、自分の意識が一気に上昇するのを感じていたのだ。しかし、今は真逆の感覚を感じるのだ。自分の外へ外へと意識が無限に拡張するかのような感覚ではなく、自分の内へ内へと無限に収縮していくかのような感覚なのだ。

こうした感覚の変化に気づいた時、この数年の間において自分の内側で何かしらの大きな変化があったことを知った。

さらに、自分はもしかしたら、偉大な芸術家が創出した絵画や建造物よりも、人知を超えた働きによって形作られた自然の方に心を打たれるのではないか、という気づきも得たのだ。果たしてこの気づきがどれほど正しいものなのかは、数日後に訪れる予定のルーヴル美術館で確認したいと思う。

いずれにせよ、より重要な気づきだったのは最初の点である。私たちはとかく意識の上昇過程ばかりに目が行きがちであり、往々にしてその実践も意識の上昇を目指したものとなりがちである。しかしながら、私たちの意識の進化において、上昇の道のみならず、下降の道も等しく重要なものであることを忘れてはならないのだ。

私たちは空の彼方のみに大宇宙があると錯覚しがちだが、地の彼方にも大宇宙があるのだ。両者の大宇宙、すなわち二つの天は一つのものとしてつながっているが、片方の道だけでは辿り着けない境地があるようなのだ。

上昇のみを希求するのではなく、下降にも等しく注意を払うこと。そして、地に足をつけて生きること。ニューシャテル湖の景観美からそのようなことを再度教えてもらったように思う。

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