ライプチヒを出発し、今日からシュツットガルトに滞在する。ライプチヒのホテルで朝食をとっている時に、CNNのニュースが放送されていた。
現在、欧州各国を小旅行中であるが、欧州の実態としてテロを含めて、様々な騒動が勃発しているというのが現実である。こうしたニュースを見るにつけ、「人類は着実に進化している」という言説は虚言だと思わされる。
そして構造的発達心理学を学んだ者が掲げがちな「人類の意識の進化に寄与する」というスローガンも相当に安直なものであり、戯言にすぎないのではないかと思わされるのだ。もちろん、過去の偉大な発達心理学者や哲学者が述べるように、数百年のスケールで人類の集合的な意識段階を観察してみると、確かに構造的な発達がみられるのは間違いないだろう。
しかし、それは数百年という長大なスケールで見た話であり、なおかつ発達段階の進化の度合いというのも実はそれほど大きくないのである。さらに、私たちは発達段階を飛ばすことはできず、必ず発達段階0から進化の歩みを始めなければならない、という根本原則も忘れてはならないだろう。
つまり、今後仮に人類の集合的な意識段階がどれほど高度になろうとも、現在の欧州で頻発しているテロを起こすような意識段階を持った人間が必ずその世界にも存在し続けるということだ。さらには、意識段階が高度化したことに伴い、テクノロジーを駆使したテロのように、その質もより高度化されることが十分に考えられるのである。
そうしたことを考えると、「人類は着実に進化している」という言説や「人類の意識の進化に寄与する」というスローガンを掲げる人たちを見ると、彼らの善意さは十分承知なのだが、いつも唖然としてしまう自分がいるのだ。
これは完全に本能的な感覚なのだが、日本にいるときには自分の身に降りかかってくるであろう危機に対する意識が極めて希薄なのだ。危機意識を喚起するような空気が日本に希薄であるからこそ、一時帰国して母国の大地を踏んだ時、言葉にならない安心感が得られるのかもしれないが、それにしても、外側に存在する確かな脅威を傍観するような空気を醸成している日本の集合意識は正気の沙汰ではないのではないか、と欧州に来てから特に痛感している。
自分の防衛本能の度合いを観察してみると、日本にいるときが極端に低く、オランダで生活を始めてから少しばかりその度合いが高まっているのを感じるが、それでも強いストレスを感じるほどのものではない。今この瞬間に単なる観光客としてドイツを訪問している自分の感覚に焦点を当てると、その防衛本能はなぜだがとても高くなっているのだ。
ライプチヒで訪れた様々な音楽家の博物館から得られた無数の感動や、列車から眺めるドイツの牧歌的な風景の裏で、私は常に防衛本能を極度に高めているような状況なのだ。国外で生活をする時にいつも思うのは、異国の地で生活をして初めて「人間に還った」という感覚が起こるのだ。
逆に言うと、日本で生活をしている時の私は、どうも人間が本来備えておくべき大切な何かを欠落させているのではないか、と思わされるのだ。現在進行中の欧州小旅行のみならず、これから数年間まずはオランダという異国の地で生活をすることによって、人間の振りをした人間ではない日本人の私から脱却し、原初の人間の姿に戻ろうと思う。何はともあれ、そこから始めなければならない。