今日からいよいよ欧州小旅行が始まった。早朝五時前に起床し、いつも通りの身体・精神エネルギーであることを確認したが、やはりこれから欧州旅行が始まるからであろうか、身体も精神も共に軽やかな感じがした。
シャワーを浴び、わずか二週間しか住んでいない今の新居に随分とお世話になっているような気がしたので、これから少しばかりもぬけの殻になる自宅に挨拶をして五時半に出発した。日中ただでさえ静かな環境を提供してくる自宅の周辺が、絵も言えぬ静けさに包まれていることに気づいた。
フローニンゲン駅へ向かう最中、瞑想実践と歩行運動が合一したような歩行禅を行っているかのような感覚になり、静けさに包まれた空間の中で時折聞こえる鳥の鳴き声や新聞配達のバイクの音などが、自分の内側に向かって生のまま入り込んでくる。日常生活において混じり合って聞こえてくるそれらの音が、一つ一つ独立した形を持って裸体のまま自分へ向かってくるような感覚だ。
駅へ向かう最中、運河を架橋する橋の上で時々遭遇する「ぬりかべ」も早朝のこの時間には出現しないようだ。欧州小旅行の最初の滞在地であるライプチヒに行くには、まずフローニンゲンからドイツ北西部の「リアー(Leer)」という街に行く必要がある。
フローニンゲンからリアーまではシャトルバスが運行しており、バスの到着場所を探そうとした。「バス停の場所はすでに知っているのだが、NS600のバスはどこかな?」と目的のバスを探していたが、どうにも見つからない・・・。30分ほど早く駅について正解だったと思いながら、多数の路線を走るバスの表示ナンバーを焦らずに全て確認した。
しかし、それでも目的のバスが見当たらなかったので、偶然にも一台だけ停車していたバスの運転手に確認すると、「あぁ、このバス停は市内運行のバスしか停まりませんよ。シャトルバスはタクシー乗り場の前です」と告げられた。
この運転手にお礼を述べ、「シャトルバスはタクシー乗り場の前かぁ〜。これまた非常にわかりにくい」と思いながら、シャトルバスが停まると告げられたバス停に向かう。古びた表示板をゆくゆく眺めてみると、確かにここがシャトルバスの停車場所だとわかった。
しかし、AとBの二つの乗り場のうち、どちらにも「リアー行き」という表示がない。正確には、Bの乗り場には別の目的地しか書かれておらず、Aの乗り場の表示板は剥げていたのだ。
7分前になってもシャトルバスが来る気配が感じられなかったので、 “Bus instead of train”とE-ticketに表示されているにもかかわらず、何を血迷ったか「これはシャトルバスという名の電車に違いない!」と思考を切り替え、バスの運転手が親切にも教えてくれたシャトルバスのバス停らしき場所を離れ、電車が止まる駅構内に急いで向かった。
駅に着くと、これまで意識したことはなかったが、改札口のすぐそばの線路には路面電車のようなものが運行しているらしいことに気づいた。そして路面電車の案内が書かれた張り紙を見ると、「6時半発リアー行き」があるではないか。
一瞬安堵感に包まれたが、電光掲示板にはリアー行きが表示されていない。やはり何かがおかしいと思って駅構内から先ほどのシャトルバスの待ち合わせ場所を遠目から確認すると、表示が剥げていたバス停に一台のバスが到着していたのが見えた。二転三転頭を即座に切り替え、急いでそこへ向かった。
バスから降りてきてタバコを吸い終わった運転手がバスに戻ろうとしているところをなんとか捕まえた。
私:「おはようございます。す、すいません。これはリアー行きですか?」
運転手:「えぇ、そうですよ。」
私:「よかった〜。どれがリアー行きのバスか全然わからなくて。」
フローニンゲンの静寂な街を歩行禅で味わっていた先ほどの意識状態はどこに行ったのだろうか?早朝から意識の状態が激しく乱高下させられたことに旅の先行きがどうなることやらと思わされたその瞬間、私の背後から声が聞こえた。
旅行客らしき若い成人男性A:「これリアー行き?」
運転手:「ええ、そうです。」
旅行客らしき若い成人男性A:「うわぁ〜、よかった〜。かなり迷ってたんだよね〜。」
私:「僕もです(笑)。」
旅行客らしき若い成人男性A:「だよね〜、わかりにくいよな(笑)。おぃ、これがリアー行きのバスだってよ。」
旅行客らしき若い成人男性B:「えっ、これなの?よかった〜。」
フローニンゲンという街はつくづく私に試練を課すのだなと思っていたが、この街は平等に万民に対して試練を課すのだとわかった。
旅行客らしき若い成人男性A:「チケット持ってないんですけど、この場で買える?」
運転手:「えっ、チケットを持ってないんですか?まぁ、この場で買えますけど。」
旅行客らしき若い成人男性A:「よかった〜、じゃあ友人の分も含めてこれで(50ユーロを提示)。」
運転手:「お客さん、このお札は大きすぎます。」
旅行客らしき若い成人男性A:「うわちゃ〜、最悪、細かいのないしな〜。」
バスのほぼ先頭に陣取っていた私はこのやりとりの一部始終を見ることができ、出発前に成田空港で日本円をユーロに換算した時、「それではあちらで不便にならないように、100ユーロ紙幣を避け、細かい紙幣で換金させていただきますね」と外貨交換所で親切に手渡された50ユーロですら不便を被ることがあるのかと思った。
それと同時に、この旅行客と言葉を交わした時に、彼にはどこか憎めないところがあったので、すかさず救いの手を差し伸べた。
私:「細かいのがないんですか?だったら、この20ユーロ二枚と10ユーロ一枚と交換しますよ。」
旅行客らしき若い成人男性A:「どうもありがとう!助かったよ〜。」
旅行客らしき若い成人男性B:「兄ちゃん、どうもありがとう!」
私:「いえいえ、どういたしまして。」
このようなやりとりがなされた後、剝げかかったバスの表示が暗に示す杜撰さとは裏腹に、定刻よりも一分早くバスがリアーへ向けて出発した。乗客総員三名。私とこの二人の旅行客だけだ。
リアーまでの一時間の中、高速バスから見える景色を眺めていた。高い建物など一切なく、のどかな牧草地が果てしなく続く風景。時折現れる風車の大きさは、その風景の中においてひときわ強い存在感を放っている。
リアーまでの景色の中で一つ忘れられないものがある。それは雲の合間を縫って地上に降り注ぐ黄金色の朝日であった。私はこの黄金色に輝く朝日をただただ眺めていた。一切の思考を介入させることなく。
しばらくこの朝日を眺めていると、一つのことにふと気づいた。私はこのところ、自分が毎日生きているのだという強烈な実感とそれに伴う言葉では形容しがたい湧き上がる感情を感じていたのだ。
言葉では形容しがたいその感情は、一般的には「生の喜び」と言われるものなのかもしれない。しかし、どうも私には「生きることの喜び」という形をその感情に与えたくなかったのだ。この感情は間違い無く、「生きることの喜び」を包摂したものでありながらも、それ以上の何かなのだ。
ひとたびそれを「生の喜び」と呼んでしまうと、消え去ってしまう感情の機微がそこに渦巻いていることを感じていたのだ。その機微に対して慎重に心の目を向けてみると、どうやらそれは「生きていることに対する侘び寂び」と表現しうるものなのではないかと思ったのだ。
そうなのだ。これなのだ。生きることに対する破裂寸前の喜びの中に侘び寂びがある感情なのだ。私はすかさずこの感情について日本語でノートにメモを取った。この欧州小旅行を通じて、私は旅の侘び寂びと同時に、生きることに対する侘び寂びも大いに感じることになるのだろう、と予感している。
黄金色の朝日を眺め、車内で鳴り渡っている洋楽ラジオ番組を聴きながらそのような発見があったのだ。すると携帯に「ドイツへようこそ!」とドイツ語で書かれたメッセージが届く。それを受けて、私は自分がドイツという国に足を踏み入れたことを知った。