この10年間ほど、毎日昼寝を欠かしたことはないように思う。どうも昼食を食べ後の午後2時過ぎあたりに、眠気と共に集中力が減退する瞬間が訪れることに気づき、15分から20分ほどの仮眠を必ず取るようにしている。
いつもと同じようにヨガのシャバーサナの姿勢で仮眠を取っていると、あることに気づいて突然飛び起きた。どうもこれまでは「言葉を感覚に当てる」という表現を用いていたが、実態としてはそうではなく、「感覚が言葉に当たる」という表現の方が随分と正確なのではないかと気づいたのだ。
感覚が感覚としてではなく、感覚が言葉として姿を表す様に気づいた時、居ても立っても居られなくなり、昼寝から飛び起きたのだ。感覚というのは本来的に言葉の形を取るような余地を残しているのか、あるいは、感覚というものは本質的に言葉の原形態のような存在として私たちの内側に生起しているのかもしれない、と思わされた。
そうしたことを考えてみると、内側に現れる感覚に対して自分の中であれこれと言葉を選択して当てはめようとするよりもむしろ、しかるべき言葉がしかるべき時に現れ、それがしかるべき言葉の形になろうとする瞬間を逃さないことが重要になるのではないか、と思ったのだ。
とはいえ最初のうちは、私たちの感覚は認知世界をするりと通り抜けてしまうような性質を持っているため、言葉によってその感覚の一端でも捕まえようとするような試みが必要になる。言葉によって感覚の把捉ができるようになってくると、感覚は自ずと私たちの認知世界の中で言葉としての形態をとり始める。
その瞬間さえ逃さなければ、感覚は自分に最もふさわしい肉感を伴った言葉として立ち現れるようになると考えている。昼寝から目覚めてそのようなことを考えさせられた。
そもそもこうした考えを生む触媒になったのは、昼寝前の午前中に読んでいた “Identity and emotion: Development through self-organization (2001)”という書籍だろう。この書籍は、私の論文アドバイザーであるサスキア・クネン先生が編集者の一人として関与し、特に自我と感情の発達をダイナミックシステム理論の観点から研究した論文が多数収められている良書である。
私がクネン先生に師事することにしたのは、現在欧州で活躍する研究者の中で、彼女はロバート・キーガンの構成的発達理論やカート・フィッシャーのダイナミックスキル理論に最も造形の深い学者だからだ。
また、応用数学のダイナミックシステム理論を活用した研究においても優れた業績を多数残しており、ダイナミックシステム理論を初めて本格的に発達研究に適用したポール・ヴァン・ギアートと共に「フローニンゲン学派」を形成したことでも知られている、ということも彼女に師事するきっかけになった。
この書籍でも言及されている「自己超出」あるいは「自己超越(self-transcendence)」という言葉がどうもここ数日間頭を離れなかった。というのも、直近の一年間において、見えない壁のようなものが自分の前に立ちふさがり、その壁を乗り越えていかないように自分を制御しているような何かが内側に存在している感覚があり、その感覚と「自己超出」や「自己超越」という言葉が強く結びついているように思われたのだ。
これらの言葉はどうも誤解されがちであるが、それらは現実世界とかけ離れた天上界の住人になることを決して意味しない。これらの言葉には、自己が自己自身を超えていくという意味と自己が自我を超えていくという二つの意味があるのだと思う。
前者に関しては、ダイナミックシステム理論で言う「自己組織化」の考え方を用いるとわかりやすいだろう。私たちには、絶えず自らを作り出していくという自己産出の働きが備わっており、既存の自己が質的に新たな自己を産出するときに、自己超出や自己超越が起こるのだ。
一方、後者の意味は構造的発達心理学の文脈における「自己超越段階」の特徴と密接に結びついたものだと考えている。私たちは確固たる個を確立する段階——キーガンの段階モデルでいう段階4——からさらに進化を遂げる時、確立した自我を徐々に越え出ていくような運動を開始するのだ。
ただし注意が必要なのは、集合意識が慣習的段階にとどまる現代社会においては基本的にこうした強固な個を確立することですら難しい状況にあり、確立した自我を乗り越えていくことはさらに困難である。
こうした一大事業が開始されるためには、そもそも自我の絶対的な成熟が必要であり、成熟し切った自我からの大きな抵抗に直面するという課題とぶつかることが求められる。成熟を遂げた自我の最後の抵抗は、極めて強力・強烈なものであり、それを乗り越えることには多大な苦痛とエネルギーが不可避に要求される。
カール・ユングも指摘しているように、強固な自我の構造を確立することが「個性化」の真に意味することであり、頑強に構築された自我を乗り越えていくのが自己超越の道である。自己を超えていくことの意味とそれが不可避に内包する苦痛が見過ごされがちな傾向にあるため、上記のようなことに考えを巡らせたのだろう。