以前から薄々感じてはいたが、もしかしたら発達理論に関して多くの方に誤解を与えてしまっているかもしれないと思った。「発達理論」と思い込んでいるものを学び始めると、「段階モデルはとても有益だと思います。ですが、これだけでは実務的な応用に関して限界がありますよね」という趣旨の発言が出てくると想定される。
これは至極ごもっともな指摘なのだが、見方を変えると、「発達理論」と呼んでいるものの意味とその範囲を取り間違えている可能性が高い。実際のところ、発達理論というのは、発達心理学の一領域に過ぎず、さらに発達心理学は「発達科学」と呼ばれる分野に包摂されているのだ。
本来、発達理論だけを取り出して学ぶことは不可能であり、発達理論を学ぼうと思うのであれば、自ずと母体となる発達心理学、ひいては発達科学までを射程に入れて学習を進めなければならないと思っている。発達科学の中身は多様な領域で枝分かれしているが、私は自分の探究を「知性発達科学」の中に位置づけ、人間の知性や能力がどのように変化・発達するかのプロセスやメカニズムの解明に関心を持っている。
正直なところ、人間の知性や能力の変化・発達について探究しようと思うと、私の目の前には多様な学問領域が自ずから広がってくるのだ。例えば、哲学、他の心理学領域(例:社会心理学、認知心理学、進化心理学、生態心理学、環境心理学、etc.)、脳科学、システム科学などに関する理解を深めないと、どうしても人間の知性や能力の変化・発達に関する探究が行き詰まってしまう。
ここで何を主張したいのかと言うと、上記で列挙したような哲学や他の学問領域を包括して「発達科学」というものが構成されているため、その構成要素である発達理論というものを狭い視野で限定的に捉えない方がいいということだ。
最たる例は、発達理論を「段階モデル」だと思い込んでしまう限定的な見方だろう。発達理論は決してロバート・キーガンが提唱しているような段階モデルだけではないのだ。発達理論には、人間の知性や能力が発達することに関係する様々な概念や他の理論がふくまれていることを忘れてはならない。
仮に発達理論を段階モデルだとみなす限定的な見方を採用してしまった場合、そうした見方は発達理論の概念的説明力と実務的応用力を大きく希薄化させてしまう危険性がある。
昔、キーガンが私たち発達心理学徒に向けて興味深い発言をしていた。「この分野に足を踏み入れてしまったが最後である。もう君たちはこの分野から逃れることはできなく、一生涯をかけてこの分野と付き合っていく必要がある」という内容の言葉をユーモアを交えながら私たちに投げかけていた。まさにキーガンの言う通りになってしまった。
私たちが存在している世界は変化する現象で満ち溢れている。これは否定しがたい事実であり、生命に類似した性質を持つ有機体であれば、個人も組織も社会も全て変化する存在であると言える。
もし私たち自身の変化や組織・社会の変化のプロセスとそのメカニズムに関心があるのであれば、変化を扱う発達理論は避けて通れない分野だと思うのだ。日本でも少しずつ、ロバート・キーガンを始めとして発達理論が日の目を見るようになってきているが、それらは発達科学という氷山のほんの一角に過ぎないため、それらを表面的に学習して探究を終えるのではなく、そこから広大な発達科学の領域に足を踏み込んでいただきたいと思うのだ。
私たち自身と私たちを取り巻く無数の変化する存在に対して永続的に関心を持つのであれば、少しずつで良いので一生涯をかけてゆっくりと発達科学に親しんでいく必要があるように思う。私は完全にこの分野に捕まり、一生逃れることはできないとわかりながらも、牛歩のような探究速度と共に一生付き合っていこうと腹を括っている。