「学術的な叡智から自分は閉め出されている」ということを感じ始めたのは、ジョン・エフ・ケネディ大学での修士課程が終わり、ニューヨークで働き始めた時だった。当時の私はニューヨークに住みながら、隣接するマサチューセッツ州のレクティカでの仕事に従事していたのだ。
レクティカの設立者である発達心理学者のセオ・ドーソンと共同で論文を執筆するプロジェクトが立ち上がった時——結局このプロジェクトは実を結ぶことはなかった——、先行研究を調査する必要に迫られ、幾つかの学術論文をワード一枚程度に要約するタスクが与えられた。
当時、私は正規の大学研究機関に属していなかったため、論文を入手するのに苦労したことを覚えている。もちろん、論文のタイトルをインターネット上で検索すれば、大抵どのようなものでもすぐに出てくるのであるが、それらがPDFとして誰でもダウンロードできる形でネットの世界に転がっているとは限らず、有料で閲覧・ダウンロードしなければならないケースも多かったのだ。
このとき以上に、学術的な叡智から自分は閉め出されているのだ、と感じたことはなかった。本来、研究者や学者の役割は、自分の研究や探究の結果として得られた知見を私的な所有物とするのではなく、広く公的なものにしていくことによって、学術的な知の発展に貢献することにあると思う。
実際に、多くの研究者や学者はそうしたことを多かれ少なかれ意識しているのだろうが、いかんせん、未だ無数の論文が一般の人たちにはアクセスできない形で存在していることも確かなのである。
ニューヨーク在住時代から、数多くの学術論文を発掘し、実際に手にとって読む機会にも恵まれてきたが、その過程の中で学術機関に属していない私には読みたくても読めない論文があったのも確かである——もちろん論文一本のダウンロードに対して、それなりの金銭的対価を支払えば閲覧することはできたのであるが。
当時のことを思い出しながら、フローニンゲン大学が提供するオンラインの文献閲覧サービスの有り難さを感じている。先ほど試しにこのサービスを使ってみたが、数多くの専門書や学術論文をオンライン上で閲覧・ダウンロードできるのだ。
オンライン上で書籍や論文にラインマーカーを引いたり、メモを取ることが可能であり、引用したい箇所があればそれ専用のボタンをクリックするだけで、引用に適した形でワードに文章を簡単に挿入することができたりする。
こうしたサービスは正規の学術機関に属していればどこでも提供しているような類いのものだろうが、逆に言うと、そうした機関に所属していないとアクセスできない学術的な知が無数に存在していることを証明している気がしてならない。
こうしたシステムは自分の研究を進める上で非常に有益であり、とても有り難いことなのだが、こうしたサービスを使うことができず、長らく人目につかない在野で研究をしていた時の自分を思うと、学術的な知にアクセスすることに関してひどく不平等な状況が実は存在しているのだ、ということを思わずにはいられない。