この日は午前中にジル・ドゥルーズの “Difference and repetition”を読み、午後からミハイ・チクセントミハイ(1934-)の “The systems model of creativity: The collected works of Mihaly Csikszentmihalyi”を読んでいた。
チクセントミハイに対しては、「フロー」の概念に関する印象がとても強く、創造性に関してこのように優れた論文を多数執筆していたことを本書を通じて初めて知った。それにしても本書の出版社である 「Spinger」は、専門書の中でもさらに専門的な内容に踏み込んだ良書を数多く出版している、という印象を改めて私に与えてくれた。
チクセントミハイはシステム理論の観点から創造性を研究しており、本書にはその研究成果が18本の優れた論文としてまとまっている。これはまた別の機会に詳しく紹介したいと思うが、創造性という現象が持つ多様な構成要素とその相互作用に着目し、また創造性というものが個人を取り巻く文化や環境との相互作用によって生み出されるという特徴を考慮して、システム理論の観点から創造性の創出プロセスとそのメカニズムにアプローチしている点が何より面白い。
私のメンターでもあり、所属プログラムのトップを務めるルート・ハータイは、ダイナミックシステム理論の観点から創造性の発達について研究をしている若き研究者であり、もしかするとチクセントミハイよりも面白い観点と方法論を持ってして創造性の研究に従事している可能性があるなとふと思った。後日、ルートが一昨年に仕上げた博士論文と最新論文をチェックしてみようと思う。
今回本書を読もうと思ったきっかけは、九月から始まるフローニンゲン大学のプログラムの中に「創造性発達と組織のイノベーション」と冠されたコースがあるからである。本書はコースの課題図書に挙がっているわけではないが、本書のタイトルにあるように、「systems model」と「creativity」という単語が決め手となって本書を読み進めていこうと思ったのだ。
読み進めてみると、創造性やイノベーションに関する研究と発達研究は非常に密接に関わっていることに気づいた。例えば、多様なイノベーション領域と多様な知性・能力領域の関係などが挙げられる。「組織のイノベーション」と一口に言っても、多様なイノベーション領域が実際には存在していることを私たちは見落としがちなのではないだろうか。
つまり、「組織のイノベーション」と呼ぶ際に、それは一体どんな領域や分野のどのような種類のイノベーションを指すのかを明確にしていないことが多いのではないかと思う。
こうした問題は個人の発達にも当てはまり、古典的な理論であるが、ハーバード大学教育大学院教授ハワード・ガードナーが提唱した「多重知性理論」やアメリカの思想家ケン・ウィルバーが提唱した「発達ライン」という考え方が生まれる以前は、個人の知性や能力の発達に多様な領域が存在していることが見過ごされていたのである。
個人の知性や能力を育む際に大切になることは、どの領域のどのような知性や能力を発達させたいのかを明確にすることである。組織のイノベーションを創出する際にもこれと同様のことが要求されると考えている。
要するに、企業組織のイノベーションを創出するためには、当然ながらその他にも多くのことを勘案する必要があるだろうが、創造性理論とシステム理論を絡めて考えると、当該組織の企業文化と所属する業界の特質に照らし合わせて、「イノベーション」が何を意味するのかを明確に定義する必要があるのだ。
これまで信奉されてきたような「イノベーション」という大雑把な概念からさらに一歩深掘りし、社内でイノベーションが意味するものは何なのかを言語化することが必要だろう。個人の知性や能力に個別性があるのと同様に、イノベーションにも個別性があり、他の企業が考えるイノベーションと自社が考えるイノベーションの意味内容が異なるのはおかしなことではなく、ある意味当たり前のことだと言える。
そのため、自社の文化や属する業界特性を勘案して、グループ対話の実践などを用いて自社固有の「イノベーション」の意味を掘り起こし、それを言語化しながら洗練させていくことが大切になるだろう。
これは私の印象であるが、イノベーションがなかなか起きづらくなっていると嘆いている日本の大企業の多くは、実際のところ、イノベーションに必要な知識や経験を社内に十分蓄積しているだろうし、イノベーションを起こすだけの体力はありそうなのだ。
問題は、起こそうとするイノベーションの輪郭がぼやけており、明確な言葉の形になっていないのではないかと思わされる。この問題は、個人の知性や能力を涵養するときにも等しく見られる。つまり、多様な知性領域と能力領域が存在するにもかかわらず、自分がどの知性や能力を育んでいきたいのかが不明確なケースが圧倒的に多く、結果として知性や能力の発達が一向に起きないのだ。
こうした現象は、組織がイノベーションを創出しようとする際にも当てはまるのではないだろうか。
個人の知性や能力を涵養する際に重要なのは、自分の資質や関心と照らし合わせ、言葉を当てることによって発達させるべき知性や能力を浮き彫りにさせることなのだ。結局、個人も組織も言葉を蔑ろにし、言語化という実践に対して怠惰な風潮が蔓延している気がしてならない。
チクセントミハイが指摘するように、創造性を発揮する領域を特定することは極めて重要であり、領域を特定するというのは言語などの記号体系を用いてなされるのが一般的である。イノベーションの領域が特定されていないと、それを創出しようとする試みは早晩徒労に終わるだろう。
こうしたことを考えると、イノベーションを創出しようとする組織にとって、言語などの記号体系を用いてイノベーションの形を浮き上がらせていくことが最初に要求されることだと思うのだ。具体的にはまず最初に、自社固有の企業文化という記号体系の読み解きが必要であり、業界特性という記号体系の読み解きがまた必要になるのだ。
しかし残念なことに、多くの組織人は、こうした種々の記号体系を読み解く言語力がそもそも決定的に不足しているように思わされるのだ。ましてや、文化や業界特性が集積した記号体系を読み解いた上で、自社固有のイノベーションを定義するという、新たな記号体系を言葉で構築していくだけの言語力も獲得されていないように思える。
そうしたことを考えると、単に瞑想することによって創造性が獲得されうると主張するようなニューエイジ的発想を企業人は笑うかもしれないが、「イノベーション」というお題目を唱えることでイノベーションが創出されうると主張するような企業人の発想をニューエイジャーは笑うだろう——もしどちらか一方を支持しろと言われれば、私は前者に軍配を上げるだろう。
なぜなら、確かに瞑想によって創造性が発揮されやすい脳波の状態や意識状態を生み出すからである。これは「イノベーション」というお題目を唱えるよりもだいぶ効果があると思う。
両者を真の意味で笑うことができるのは、記号体系の読み解きと構築に耐えうるだけの言葉を鍛錬した者だけだと思うのだが・・・。