
九月からのプログラムが本格的に開始されるまで、あと三週間ぐらいの時間がある。今、幅広く自分の関心に合わせて様々な専門書を読んでいるが、今日は論文のアドバイザーを務めてくださるサスキア・クネン先生の論文に目を通しておこうと思った。
クネン先生もカート・フィッシャーに劣らず、学術論文の執筆は多産である。現在、彼女の論文のほとんどはインド洋の貨物船の中だが、彼女の論文を二本だけスーツケースの中に入れてきたのだ。その論文が入ったクリアファイルは本棚に立てかけてあり、それを取ろうとしたら、クリアファイルが本棚と本棚の隙間に落ちてしまった。
それを取ろうとした瞬間、吉祥寺の社宅で生活していた三歳の頃、タンスとタンスの間に足が挟まって抜けなくなった時の記憶が蘇ってきた。私たちはもしかすると、本棚と本棚の隙間に置かれているクリアファイルのような存在、あるいは、タンスとタンスの間に挟まっている足のような存在なのかもしれないと思った。
これは米国在住時代の記憶であるが、サンフランシスコの街中を何気なく歩いていると、突然、狂人と常人の境目は無いに等しいのではないかという考えが降ってきた。仮に今の自分が常人であるならば、いとも簡単に狂人に転がり落ち得るということがわかったのだ。
常に狂気と正気の狭間に立ちながら、私たちは今という瞬間を生きているのではないだろうか。両者の違いはほとんど無に等しく、わずかばかりの契機をもとにして、私たちは狂気にも正気にも満たされ得るということを感じてしまったのだ。両者の境界線上に自分は立っている、そんなことをサンフランシスコの街中で思い知らされたという記憶が蘇ってきたのだ。
そしてこれは、生と死に感しても当てはまる。私たちは生と死の狭間に生きているのではないだろうか。極言すると、そもそも生も死も存在しないのではないかと思わされ、その狭間が存在するだけなのではないかという気がしている。
この「狭間」というのは、実に曖昧な存在空間であるが、その空間は生と死のどちらも包摂しているということも言えそうだ。生と死の区別があることはわかっているが、そうした区別を超えたところにもう一つ違う何かが存在している気がするのだ。
左の本棚と右の本棚が異なり、それらの間に挟まれたクリアファイルが共に異なるものであることはわかっている。しかしながら、本来「挟まれている」という受動的なクリアファイルが本棚を能動的に「掴んでいる」かのごとく、左右の本棚をクリアファイルが含んでいるような感覚なのだ。
この感覚はわかりにくいかもしれないが、要するに、左右の本棚の間に隙間があるからこそ、二つの本棚が存在できているというような感覚なのだ。
このような感覚に従うと、私たちの眼前には、生と死がどちらも同時に共存在するような空間が広がっていると言えないだろうか。生があるから死があるわけでもなく、死があるから生があるわけでもなく、こうした共存在空間があるから生と死が共にあるというような、そんな認識世界が自分の中に開かれている感覚なのだ。