毎日呼吸をするのと同じように、文章を書くということを習慣づけて以来、一つの大きな疑問に直面していた。毎日文章を書くという同一の実践をしているはずなのに、なぜ書く文章の中身が全く同一なものとなりえないのかが不思議だったのだ。
仮に以前執筆したものと同じようなテーマについて何か書こうと思ったとしても、文章に現れる語彙や文章の構成が完全に同一なものとなりえないことがとても面白く思った。日常がどんなに平凡に思えても、どんなに繰り返しの多い日々に思えたとしても、私たちの内側では常に昨日とは何か違う差異が芽生えているらしいのだ。
昨日の私と今日の私は、確かに自己の同一性が保たれているが、それでも微視的に自己を観察していると、多様な差異が自己の中で芽生えているのである。繰り返しの日々の中で差異が生じるという感覚を獲得した時、私は驚きのあまりしばらく唖然としていた。
私は我に返ると、毎日の自分の生活の中で、人目につかぬところで確かに生じている微細な差異を絶え間なく見届けることこそが、繰り返しとして流れる日々を深く尊重することになるのではないかと思ったのだ。そこからさらに、「反復」と「差異」という言葉の中には、今の私では掴むことのできないような大きな意味がまだ多分に隠されている、ということにも気づいたのだ。
これは以前の記事でも書いたが、昨年から特に不可思議な偶然が頻繁に身に起こるようになり、上記のような問題意識を持ちながら、未だ到着しない日本からの蔵書を待っている新居の本棚を眺めてみたところ、ある偶然に出くわしたのだ。
本棚に置かれている数少ない書籍の中で、フランスの哲学者であるジル・ドゥルーズ(1925-1995)が執筆した "Difference and repetition (1994)”が目に飛び込んできた。
なぜ私はこの哲学書を購入し、なぜこの書籍を自分の身と共に真っ先にオランダに持ってきたのか不思議でしょうがなかった。この書籍の裏表紙と序章の最初のページしか読んでいないので、ドゥルーズが「差異」と「反復」にどのような意味を付与し、両者の関係性についてどのような思想を展開しているのかまだ定かではない。
しかしながら、序章の最初のページで、「反復は反復自身を生み出し、差異は差異自身を生み出す」というドゥルーズの指摘とは少しばかり違う感覚を私は持っており、この感覚の相違を確かめるかのように本書を読み進めていきたいと思ったのだ。
私が先ほど感じていたのは、反復の中に差異が宿り、差異の中に反復が宿るという類の感覚だった。言い換えると、反復に満ちた日常が自己の中で差異を創出し、新たな差異を獲得した自己が生活の中に反復性をもたらすという感覚に襲われたのだ。
つまり、反復と差異は別種のものでありながら、それは表裏一体の関係にあり、相互作用を生み出すような性質を持っているのではないかということだ。序章の最初のページから自分の主観的な感覚や考えを挿入しようとさせるのであるから、私はつくづく文献学者や哲学学者には向いていないのだと思わされる。