この瞬間において偶然だと思っていることが果たして本当に偶然なのかどうかを考えている。というのも、そうしたことを考えざるをえないぐらい、昨年以降、実に不思議な偶然が多発しているのだ。
先ほど湯船に浸かりながら、自らの個別的な体験と徹底的に向き合うことによって、普遍的な何かを掴んでいく必要があると改めて思っていたところ、この態度こそまさに、私が森有正先生に対して最大の共感をした点なのだということに気づかされた。
森先生は、ご自身の体験を思索の糧にし、それらと不断に向き合うことによって、普遍的な思想を打ち立てていった。より正確には、個的な体験というよりも、森先生という一人の人間でしか触れることのできない固有の純粋経験を出発点とし、そこから思想を紡ぎ出して行ったのだ。
森先生の思索に対するこうした態度が発火材料となり、森先生のイメージからウィリアム・ジェイムズのイメージが湧き上がってきた。ウィリアム・ジェイムズも、哲学思想の原点を純粋経験に求め、それと真摯に向き合うことによって、独自の哲学体系を打ち立てたと言っても過言ではないだろう。
900ページを越す大著だが、ウィリアム・ジェイムズの主要論文が収められた “The Writings of William James: A Comprehensive Edition, Including an Annotated Bibliography Updated Through 1977”を読んだ時に、上記のようなことを思ったのを思い出した。
とりわけジェイムズが、既存の言葉や概念で言い表せないものを、自分の言葉や概念によって捉えようとしていく姿勢に森先生と同じものを見出したのだ。ジェイムズも森先生も、個的純粋経験に光を当て、それを言葉や概念で捕まえようとする不断の試みを通じて、己の思想体系を構築していったのだ。
そこで思い出したのが、上述のジェイムズの書籍と同時期に購入した、西田喜多郎先生の『思索と体験』という本である。西田先生はまさに、ご自身の座禅の実践をもとに純粋経験を自覚することによって思索を深めていった哲学者である。
オランダに持ってくる和書を絞りに絞った結果、西田先生の書籍を他にもあれこれと購入したにもかかわらず、この一冊だけを偶然ながら持って来ることにしたのだ。これは大きな偶然だと思う。
もう一度話を戻すと、もちろん森先生はデカルトやパスカルの研究で偉大な功績を残しているし、ジェイムズにせよ過去の心理学者や哲学者の業績の上に偉大な功績を築いていったと言える。
だが、西田先生と同様に、彼らは三人とも、単純に過去の学説を整理するような文献学者では決してなかったし、過去の哲学者の思想を単に追いかけるだけの哲学学者でも決してなかったのだ。
彼らは各人固有の純粋経験を逃すことなく、それを思索の第一の糧とし、独創的かつ普遍的な思想にまで思索を深めていったのだと思う。そのようなことを考えながら、私自身も自己の純粋経験から探究を出発させる必要があると強く思った。