東京滞在中の昨年一年間において、あるボディワーカーの方のセッションを定期的に受け続けていた。多い時には、二週間に一度ほどセッションを受けさせていただいていた。
そうした意味において、昨年一年間は自分の身体との対話を豊富に行った期間であったし、自分の身体を通して自己と対話する時期だったのだと思う。この継続的なセッションが無ければ、昨年にかけて勃発した変容の時期を乗り越えていくことはできなかったと思う。
それぐらい私にとって重要な実践であった。そのため、セッションごとの体験を文章の形で記録していなかったことがやや悔やまれる。セッションで得られた気づきや体験が再び記憶の前面に躍り出ることがあれば、思い出した範囲の内容を共有したいと思う。
以前、「発達理論実践編講座」の中で、受講生が「身体は感情を持っているのでは?」という仮説を紹介してくれたことがある。実際のところ、脳科学者のアントニオ・ダマジオも同様の仮説を提唱している。
確かに私たちの脳はある感情を情報として認識・処理するが、私たちの身体自体が感情を持っているというのも納得感がある。例えば、悲しみの感情が湧き上がってきた時に、私たちは胸が苦しくなったりするが、これは私たちが悲しんでいるだけではなく、私たちの胸も実際に悲しんでいるということだ。
私の経験からするとさらに、「感情が身体を持っている」という不思議な関係も見出せそうな気がする。より正確には、私たちの感情は特定の身体エネルギーを持っており、それはあたかも一つの身体を形成しているかのように思えるのだ。
自分の内側で生じる感情を丹念に観察すると、それは独自の身体エネルギーを持っており、それはまた身体のある特定の場所から湧き上がってくるように感じる。怒りの感情を例にとると、私の場合、「腹わたが煮え返る」という表現があるように、下丹田あたりにその感情を感じるのだ。逆に言えば、怒りの感情は私の下丹田を持っているとも言える。
ここで興味深いのが、無意識の奥底に眠っている私の怒りの感情の一つは、自分の右足の甲に感じることがあるのだ。これは幼少時代のトラウマから来ていることが判明しているが、記憶と感情と身体が密接に結びついていることに気づかされる。
ボディワークやエネルギワークを継続すればするほど、感情と身体は表裏一体の関係を成しているということがはっきりとわかるようになるものだ。
ケン・ウィルバーの発達理論に基づくと、上記のような身体と心のつながりに目覚める段階は「ケンタウロス段階」と呼ばれる。ケンタウロスとは、頭が人間、体が馬のギリシア神話上の架空の生き物である。
ウィルバーの発達理論とロバート・キーガンの発達理論を対応させると、ケンタウロス段階は発達段階4と5の中間(専門的には4/5の段階)に当たる。この段階に近づいていくと、心身の統合を図ろうとする動きが芽生えるのだ。
その理由について考えを巡らせてみると、一つには、段階5に向かっていくためには、この世界で生きていく上で直面する様々な対極的な事項を統合して乗り越えていくことが要求されるからだろう。相反する事柄を一旦自分の意識の器で受け止めるためには、対極的な事柄に押し潰されないだけの心身の器が必要になると思うのだ。
そのため、心身を統合させ、より密度の高い意識構造を作っていくプロセスが必然的に生じると考えている。
さらにこの点に付随して、意識の高度化が進めば進むほど、思考の対象はより複雑かつ微細な現象になり、そうした複雑かつ微細な現象を的確に認識・把握するためには、微細な身体(”subtle body”:サトルボディ)を確立することが求められる。
私がこの一年間行っていたのは主にサトルボディを調整・発達させるワークであり、身体感覚が微細なものを捉えられるようにより研ぎ澄まされてくればくるほど、思考もより微細なものを掴めるようになってきているというのを体験から実感している。
企業人を眺めてみると、意識の発達に不可欠な身体がそもそも作られていないという状況を目の当たりにすることが多い。正直に述べると、企業人の多くは意識の高度化に求められる身体的な器が作り上げられていないと言うよりも、むしろ身体を喪失してしまっているような印象を与えるのだ。
意識の発達を議論する前に、身体の喪失によって引き起こされた精神疾患などを治癒する必要性の方が高い場合が多いというのが実情だと思う。身体性の回復と、高度な発達に耐えうるだけの身体基盤の確立が真っ先に取り組まれるべきことだろう。