(写真:リフォーム前の書斎。ほとんどの方はリフォーム前の方が小綺麗だと思われるであろうから、リフォーム後の写真は割愛)
フローニンゲンでの生活の三日目が始まった。嵐のような二日間が過ぎ、ようやく平凡な日常に戻る。これが台風の目でないことを祈るばかりだ。
今日からようやく日本で毎朝欠かさず行っていた各種のルーティーン(e.g., 起床後のヨガ、瞑想、英語のシャドーイング、英語論文の筆写)を実践し始めることができた。このルーティーンが開始されると、どの国にいても、どんな環境にいても、自分本来のペースで生活を営むことができると実感する。
上記のルーティーンに数ヶ月前に新たに加わったものとして、自分の精神状態を良好に保つために、毎朝必ず日本語で文章を書くということを行っている。この実践を失念すると、必ず精神状態が悪化するということを米国時代に思い知らされたので、日本語を書くということを一種のサイコセラピーだと思って今後も日々継続させていきたい。
さて、8月3日は部屋のリフォームを行うことを前日に決めていたのだ。当初の計画と幾分異なる出来事に見舞われたが、朝からリフォームに取り掛かる。リフォームと言っても大掛かりなものではなく、単に部屋の家具の配置換えと部屋をもう一度自分の手で綺麗に掃除するというぐらいのものだ。
一人暮らしであるから正直なところ、スタジオ形式(ワンルーム・マンション)でも良かったような気もするが、気持ちだけでもオランダ人のように大きくゆとりを持ち、寝室と仕事場を別個に設けた。結果としてこれは功を奏したように思える。
というのも、昨年住んでいた東京の自宅はそれなりに広いスペースではあったが、どれだけの期間東京に住むのか定かではなかったため、マンスリー・マンションのこの部屋に本棚を置くことをしていなかったのだ。そのため、部屋の至る所に、書籍の山が形成されていた。分量の多い専門書を20冊ぐらい積み上げて一つの山を作ると、下にある書籍を取るのが至難の技であった。
いちいち山を一旦壊してから、必要な書籍を取る必要があったのだ。仮に横着をして、積み上がった書籍の山から10冊ぐらいを一気に持ち上げて取り除こうとすると、腰を痛める——これは経験談である。
今回の新居にはありがたいことに、備え付けの大きな本棚があり、そこに持参した専門書の大半を収納できそうなのだ。本棚のおかげで、「発達心理学コーナー」「ダイナミックシステム理論コーナー」「哲学コーナー」などを設けることができそうで、研究の際の検索機能が一挙に増したように思う。
本棚や机を自分の納得のいく位置に変え、念のためにもう一度ヘドロで溢れた浴室の床を丹念に掃除した。私は仕事場から外を眺める景色をとても気に入っており、フローニンゲン上空をゆっくりと過ぎて行く雲とヨーロッパらしい家々をより良く眺められるように、窓のシャッターを一本一本綺麗に拭き取った。
(写真:書斎からの景色)
自分の部屋が望むような形に変貌したことに対して大変満足し、私は例のスーパー「Jumbo」にご飯を買いに出かけようとした。意気揚々と部屋を飛び出した瞬間、そこで待っていたもの・・・。それは・・・「ダイダラボッチの仁王立ち」(ダイダラボッチの詳細については、記事273を参照)。
思わず私は「このタイミングかよ〜、ヨス!」と心の中で叫んだ。そういえば、シャワーのお湯の件でヨスに昨夜メールをしていたのをすっかり忘れていたのだ。どうやら、ヨスがダイダラボッチを速やかに召喚、いや便利屋を速やかに呼んでくれていたのだ。
私の部屋の外にちょうどボイラー室があり、便利屋はそこで何をしていたかというと、お湯をためるタンクを仁王立ちでじっと睨んでいたのだ。
ダイダラボッチ:「オプッ・・・コンニチハ(英語)。」
私:「こ、こんにちは。あれですよね、シャワーのお湯を直しに来てくれたんですよね(英語)。」
ダイダラボッチ:「エエ(英語)。」
私:「ありがとうございます。ちょっとJumbo(ジャンボ)に、いや、スーパーマーケットに買い物に行ってきますね(英語)。」(英語がそれほど達者ではないこの大きなお方に「ジャンボ」と言って、何か良からぬ誤解を決して与えてはならぬ、と本能的に察知したので、「スーパーマーケット」という柔らかな表現に即座に変えた)
ダイダラボッチ:「ハイ(英語)。」
私はスーパーに行く道中、初めて便利屋と遭遇した時と今さっき遭遇した時の内側の感覚が微妙に異なることに対して思いを馳せていた。確かに先ほども、日本ではなかなかお目にかかれない大男が部屋の外で仁王立ちをし、険しい表情を浮かべながらタンクを凝視している姿を見た時に、それなりにギョッとするものがあったのは事実だ。
しかしながら、初対面の時に味わったギョッとする感覚とはその度合いが異なっていたのだ。ダーウィンを始めとし、ラマルク、ボールドウィン、ピアジェを含め、生物の環境適応について思索を深めた偉人たちの顔が思い浮かんだ。
オランダに来て数日しか経っていないが、巨人の住むオランダという環境へ適応しようとする自己が芽生え始めている気がしたのだ。昨日までは、こうした環境で生きるための自己の芽が存在しておらず、この大柄な便利屋に遭遇する幸運を得て、すべての人間に内在的に備わる環境適応を促す種子から、一気に芽が出てきた気がしたのである。
自己が新たな環境に適応し、さらなる成長を遂げようとする際に、その環境下における異常値と対面することが重要なのではなかろうかと思った。もちろん、自己の耐性を常に考慮に入れなければならないが、境目となる閾値を超えるような異常値に出くわすことによって、自己の器が拡大するように思うのだ。
出くわした異常値を正常値として自己の内側で処理するために、自己は既存の器を拡大させなければならない。既存の発想の枠組みをはみ出すような存在や想定外の出来事と数多く触れること。これらが私たちの器を拡大してくれる主要因になるということを、今回の体験を通じて改めて強く思った。
スーパーから戻ってくると、便利屋は姿を消していた。ヨスにせよ、便利屋にせよ、皆さん仕事は早くて正確だ。私がこれまで暮らしてきた日本や米国とは、ちょっと何かが違うだけなのだ。