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261. 希望という名の投票箱に一票を


いよいよ夏らしくなってきた。今朝は雲一つないほどの晴天であり、生命の躍動を促すような力強い太陽光が早朝から降り注いでいる。渡欧の日がいよいよ二日後に迫ってきており、その前に日本の夏らしさを感じることができて幸運に思う。

先日街を歩いていると、東京都知事選挙へ向けて候補者のポスターが張り出されているのを見かけた。ポスターを眺めながら、この世界は希望と絶望で均等に満たされているような思いが襲来した。希望が勝るのでも、絶望が勝るのでもない、そんなことを直感的に捉えたのだ。

さらに、私たち各人に、希望という名の投票箱と絶望という名の投票箱のどちらに一票を投じるのかが委ねられている気がしたのだ。そのような思いの中、私は自分がどれだけ絶望に包まれていようとも、自分の手が絶望に侵されていたとしても、希望という名の投票箱に絶えず一票を投じていきたいと思った。

昨日、改めて自分の探究姿勢を確認した。このところ、繰り返しこのテーマが頭に浮かび、自分の考えを声に出しながら、文章にしながら、絶えず自らに言い聞かせるかのようなフィードバックループが生まれている。

井筒俊彦先生や森有正先生から学んだ探究姿勢。それは、真に普遍的なものに到達するためには、個の経験を絶えず深化させていく他に道はないという考えのもと、常に自己の内側を通して世界に関与しながら思索を深めていこうとする態度である。

効率性や量の拡大を礼賛する風潮にある現代社会において、「叡智」という言葉は死語になりつつあるのかもしれない。しかし、現代社会から叡智を抹消してはならないと思うのだ。なぜなら、叡智は紛れもなく私たちの生を豊かなものとし、それは生きる原動力のようなものだからである。

叡智というものが形骸化し、死物と化している時代にあっても、私は叡智を追い求めたいと強く思うのだ。井筒先生にせよ、森先生にせよ、彼ら先達は叡智を決して観念的にではなく、主体的・実存的に追求していたのだと思っている。

私もその点に自分の活動根拠を見い出している。叡智というものは単なる観念的な言葉ではなく、本来、万民に訴えかける力を持つ普遍的なものであり、生きる力を呼び覚ますような実存的なものだと思うのだ。

現代社会の風潮に逆行することになったとしても、どれだけ時代錯誤と言われようとも、そうした普遍的・実存的な叡智を追い求め、その過程で得られた体験や知見を私にできる範囲で表現・共有していきたいと思ったのである。

もはや疑うことができないのは、私の探究根拠は叡智を見出すことであり、現代社会の中に叡智を回復させることにあるということである。叡智を獲得するまでは長い道のりであり、紆余曲折があると思うが、探究の過程で得られた知見や、探究の最中で湧き上がる自分の思いや考えを含めて、分量は短くてもいいので、とにかく文章の形で表現し、書き残していこうという思いに至った。

この実践こそが、希望という名の投票箱に絶えず一票を投じるという自分なりの生き方なのだと強く思う。

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