オランダという異国の地へ向かう日が刻一刻と迫ってきている。出発の日まで一ヶ月半ほどあった時には、自分の心の動きは至って平静であった。しかし、一ヶ月半を切り始めると、心の動きが変化に富むものとなってきているのに気づく。
日常生活において心の動きがこれだけ起伏に富むものになることはそれほどないであろうから、日々の心の動きを随時ノートに書き留めている。変化する心境を言葉によって捉え、固定化させないと心中穏やかではない。
また、起伏に富む心の動きを言葉によって書き記し、固定化させるプロセスを経ないと、心の動きが上手く流れていかないとも感じている。要するに、書くという行為を通じて心の動きを固定化させることは、翻って心の流動的な動きを担保してくれるのだ。
今回の渡欧生活は、自分にとって非常に重大な経験になりそうだという予感がしている。地中に植えられた雑草の種子が、生命力に後押しされて地面の固いアスファルトを突き破ってでも外の世界に出て行こうとするのと同じように、今回の経験は私を外へ外へと押し広げていくような力を内包している気がしている。
何かを経験するというのは、現在の自己の境界線から外へ出て行くことなのだと思う。経験を表す英単語 “experience”の接頭語 “ex-“は「外へ」という意味を持つということを思い出した。
やはり、経験とは本来、自己の現在の世界から私たちを外へ引きずり出すという性質を持っているようだ。真の経験は私たちを外へ押しやるということに加え、現在の自己の限界を絶えず突きつけてくるものだろうし、現在の自己を否定しようとする衝動がそこに息づいている気がするのだ。
そう考えると、自己にとって経験とは、自らを異界へと追いやる強制力と自己否定のようなものを同時に兼ね備えているのだと思う。
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-1995)は、アンリ・ベルグソン(1859-1941)の思想の流れを汲み、生命の運動を完結することなく流動し続けるものであると捉えている。また、生命の運動はあらかじめ完成された地図に基づいてなされるものではなく、地図そのものを作成し、書き換え続けるという特徴を持つと指摘している。
これらの特徴は私たちの経験にも当てはまるのではないだろうか。経験は絶えず流動し続ける運動と捉えることができ、それはあらかじめ定められたものではなく、経験が新たな経験を創出していくという特徴を持つのではないだろうか。
こう考えると、もはや経験と自己の境界線が見当たらなくなってくる。経験とは自己そのものなのかもしれない。あえて両者を区別すれば、経験はその流動的な性質と自己創出的な性質を持ってして、流動し続ける自己を支え、自己が絶えず自己を新たに書き換えていくことを促すものなのだと思う。
ただし、経験は自己の安全を無条件に約束するものではない。経験は自己を異界へ追いやり、自己が立脚している日常性を揺るがすという性質を不可避に内包していると思うのだ。つまり、経験は自己の流動性と自己創出を支えるという優しさを持っている反面、自己の日常性に亀裂を生じさせるような厳しさを持っている気がしてならない。
そうしたことを考えながら、人生の今この瞬間にしか得られない思いや気づきをノートにまた書き記す。