昨日、山口県の実家から東京に戻ってきた。渡欧を5日後に控え、税務署への確定申告や市役所への転出届の提出、国際心理学会議(ICP2016)へ向けたプレゼン資料の最終準備や荷物の梱包という一仕事が残っている。
これらの仕事を終えれば、いよいよオランダへ旅立つことになる。実家に滞在中、私は特殊な意識状態の中にあり、まさに夢を見ているかのような感覚であった。そうした夢見の感覚も、帰りの新幹線が東京に近づくにつれて徐々に薄れていった。
これは夢から醒めるかのような感覚であったし、より正確には、ある夢から別種の夢へ移行するような感覚であったと表現できる。東京は東京でまた違った夢を私たちに開示してくるのだろう。
本格的な夏の到来はこれからなのだろうか?昨年一年間は日本に滞在しており、日本の夏を昨年も経験しているはずなのであるが、夏というのはこれほど涼しいものなのだろうか。
今日も東京は過ごしやすい気温である。「天候は自らの化身である」ということがわかって以来、いかに寒かろうが暑かろうが、天候の変化に右往左往することなく、それらは自らの現れであるということを理解しながら天気と共に生きている自分がいる。
しかしそれにしても、現時点での日本の夏は過ごしやすいと感じている。これは私の主観的な感覚であるし、もしかしたら、日本の気候を快適なものだと思おうとする何らかの心の投影なのかもしれないと思った。
いずれにせよ、日本の夏を美しいものとして心に留めておきたい自分がいるのは間違い無いだろう。アスファルトに照りつける灼熱の太陽光、セミの鳴き声、木陰にやって来るそよ風、夏という季節が生み出す全ての景観の中に美を見出し、それらを心に留めておきたいのだ。
思えばこうした試みも、ある種の自己確認をしていることなのかもしれない。諸々の事象に固有の美を見出しているのは自分である。そうであるならば、自己という存在はやはり美なのだろう。
イマニュエル・カントが提唱した「真・善・美」の三象限モデルでは、人間の内面を扱う象限を「美」として捉えている。そうなのだ。人間の内側に入り込んでくる全てのものは本来美的なものであるべきであるし、自己は美に他ならないのだ。
そうであれば、人間の内側に汚物を流し込もうとする悪意ある行為や仕組みは断固として排斥する必要があるように思う。美に溢れ汚物にまみれた現実世界を今日も生きながら、自分に今できることを着実に行っていく。