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248. 内的感覚と言葉の往復運動

以前、「発達理論実践編ゼミナール」の中で、内的感覚と言葉の関係について面白いディスカッションになった。ここ最近、内側の感覚と言葉の関係性について考えさせられることが多く、これはもしかしたら、当時のゼミナールの受講生が話題として言及してくださったおかげではないかと思う。

その方曰く、30代の後半から50代の現在に至るまで、内側の感覚を言語化する実践を行っているそうだ。自分の内的感覚と自分の言葉がなかなかしっくりと合致することがなく、もどかしい思いを抱えながらもこの実践を継続させてきたそうだ。

思うに、内的感覚と言葉が完全に一致することはそれほどなく、内的感覚は私たちの言葉より常に先行を走っている気がするのだ。つまり言葉が生まれる以前に、言葉では把捉しきれない内側の感覚が芽生えているということである。

ひょっとすると、知性や能力の発達において、常に内的感覚が先行的に発達していき、その内的感覚の発達に追いつこうとするために、私たちは内的感覚に言葉を当てようとするのではないか。そして、先行して発達する内的感覚に追いつく形で私たちの言葉が発達し、内的感覚と言葉の双方が成熟していくのではないかと思っている。

先行する内的感覚が言葉の光に照らされることによって発達していくのであれば、内的感覚を言語化する営みが欠如している場合、その能力の発達は進まないことになる。また、内的感覚と言葉のズレが生み出すもどかしさは、まさに発達を推進する原動力のようなものだと思うのだ。

知性や能力が高まれば高まるほど、言語を超越した微細な現象への気づきが増していくが、そうした微細な現象を捉える内的感覚を磨くためにも、内側で生じた感覚に言葉を与えていくことは重要なのだと思う。

ありとあらゆる知性や能力の発達に終着地点は存在しないため、もしかしたら私たち人間は、内的感覚と言葉のズレが生み出すもどかしさと一緒向き合っていくことを宿命付けられた生き物なのかもしれない。ある時、内的感覚を言葉によって的確に捉えたと思っても、内的感覚そのものも常に変化しているため、この試みに終わりはなさそうなのだ。

もしかしたら内的感覚と言葉は、お互いにフィードバックし合うようなダイナミックなシステム関係を構築しており、内的感覚と言葉の往復運動をすることによって、双方のシステムが進化していくのではないかと思っている。

ゼミナール受講生の中で小林秀雄に造詣の深い方がいらっしゃり、その方曰く、小林秀雄は自分の言葉を徹底的に磨いた後に、言葉から一旦離れ、感覚的な芸術の世界に入っていき、再び自分の言葉を掴み直して行ったそうである。

やはり、言葉を磨くだけでは捉えられない現象がこの世界には確かに存在するし、逆に感覚だけでは捉えられない現象がこの世界に存在するのも確かである。

小林秀雄の探究プロセスが示すように、言葉を鍛錬することによって内的感覚を掴み直し、内的感覚を鍛錬することによって言葉を掴み直していくという実践の先にしか開かれぬ境地がありそうだ。

【追記】

上記で述べた内的感覚の言語化とは、内側の感覚を芸術的な創作物として表現することも当然ながら含んでいる。要するに、言語化とは単純に概念的な言葉を当てはめることではない。ここで述べている言語化とは、内的感覚を単なる体験として素通りさせるのではなく、経験に落とし込むための何らかの変換作業である。

そのため、それは音楽として表現してもいいだろうし、絵として表現してもいいだろう。その表現方法は多様である。いずれのアプローチを採用するにせよ、それらは内的感覚を素通りさせることなく、それに光を当てることによって形とすることに貢献する。

その結果として、体験的な内的感覚が経験として昇華され、自分の中で血肉化されるのだ。ある意味、内的感覚を血肉化させるための実践を等しく言語化と呼んでいる。「言語化」という言葉に違和感があれば、より簡潔に「経験化」あるいは「体現化」という日本語を当ててもいいかもしれない。

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