先日から数回にわたり、発達理論に造詣の深い知人の方と意見交換をさせていただいていた。ロバート・キーガンが提唱した構成的発達心理学(constructive developmental psychology)やピアジェ派や新ピアジェ派の構造的発達心理学(structural developmental psychology)においては、内面の発達や成熟を建築物の高さに見立てるのに対し、自己心理学(self psychology)においては、建築物の堅牢性(その建物の素材の質や強度)に見立てるという両者の関係性に関する質問を最初にいただいた。
言い換えると、構成的発達心理学や構造的発達心理学では建築物の堅牢性に関する言及がほとんど見当たらず、そのあたりに関する情報と建築物の高さと堅牢性の関係性について意見を求められたのだ。
「成熟」という言葉を一つ取ってみても、上記で述べたような二つの異なる意味がある。
構造的発達心理学が扱う「成熟」というのは、まさに建築物の高さに該当するものである。つまり、構造的発達心理学が扱う「垂直的な成長」というのは、建物がより高く建造されていく様子を表している。一方、自我心理学や自己心理学が扱う「成熟」という概念は、建築物の堅牢性に該当するものだと思う。それを構造的発達心理学の観点から捉えると、まさに「水平的な成長」のようなイメージである。
そうした両者の関係を考えると、真に全人格的な発達を遂げるためには、堅牢性を確保しながらより高度な建造物を建立させていく必要があると考えている。特に、幼少期の体験がその人の建築物の土台になることは間違いないため、そこが脆弱である場合、高度な建造物が築き上げられることはないだろうし、仮に築き上げられたとしても、いつか必ず崩れ去ってしまうだろう。
ザカリー・スタインも指摘しているように、建物の次の階層を構築するためには、現在の階層をいかに豊かにするか、つまり、その段階における経験を豊富に積んでいくことが不可欠だと思う。私たちが発達段階をひとっ飛びに移行することができないのは、もしかすると創造主の計らいなのかもしれない。
発達段階を飛ばすというのは、現在の発達構造を蔑ろにしてしまうことを意味するため、発達段階を円滑に駆け上がることができないというのは、とても理にかなっている気がするのだ。
また、カート・フィッシャーが知性や能力の発達に「感情」が不可欠であると述べているのも、建築物により高度な階層を加えていくためには、土台となる堅牢性というものが必須となり、それはそもそも人間関係の中で情緒の交換を通して育まれるものであるという考え方がフィッシャーの思想の中にあるのだろう。
こうしたことを考えると、建物の堅牢性を無視して高さのみを追求することは、非常に危険な営みであるばかりか、それはほとんど意味のないことだとも思われる、という意見を伝えさせていただいた。
それに対して、再び鋭いご指摘を受けた。一方が「高さ」に着目するものであり、もう一方が「堅牢性」に着目するものだとすると、ケン・ウィルバーのインテグラル理論が提唱する「発達ライン」という概念は誤解を招く可能性のあるものであり、今回の論点である二種類の成熟をうまく説明するものではないというご指摘であった。
さらに、建築家は建物を設計する際に、単に高さに着目するだけではなく、その建築物の堅牢性を確保する建築素材についても真剣に検討するはずであり、カート・フィッシャーの研究や理論は「発達段階が高度な段階に到達するためには、自我はどのような堅牢性を備えておく必要があるのか?」「自我の堅牢性が確保されずに高度な段階に達してしまった場合、どのような負荷が加わると構造の崩壊や退行が生じるのか?」という問いに肉薄するものではないのではないか?というご指摘を受けた。
一点目のご指摘はインテグラル理論の「ライン」という考え方の問題を突いている。私たちの知性や能力というのは、各々が独立しながらも相互に関連し合っている。しかし、インテグラル理論が「ライン」という概念を図で説明する際には、複数の知性領域(能力領域)が単に独立したものとして分断されてしまい、それらの相互作用のニュアンスが伝わりにくいという問題を抱えている——ウィルバー自身はこうした相互作用を考慮に入れているのであるが。
また、二つ目のご指摘は、ピアジェ派や新ピアジェ派などの構造的発達心理学が内包している盲点を突いている。構造的発達心理学では、どうしても建物の高さのみに着目しがちであるという限界を持っている。
カート・フィッシャーがある時期から「構造(structure)」という言葉を使うのを避け、感情や環境による変動性を踏まえて「レベル(level)」という言葉を用いるようになったのも、建物の高さというのは固定的ではなく、高さそれ自体が建物の素材や建物を取り巻く環境要因によって変動するということを認識していたからだと思う。
実際に、後年のフィッシャーは、フローニンゲン大学のポール・ヴァン・ギアート(オランダで私が師事をする人物)という研究者のアプローチに影響を受け、そもそも「建物」というメタファーすらも使わないようになっていたのだ。
建築物というのはそもそも、環境的な要因によって形が変わったり、高さが変わったりするものではない(晴れの日には建物が円形状に変化したり、高さが変動することは基本的にはない)。しかし、私たちの意識や心はそうではなく、環境要因によってダイナミックに変動するものである。そこでフィッシャーが採用したのは、ヴァン・ギアートが使っている「生態系(ecosystem)」というメタファーである。
このメタファーにおいて、人間の意識そのものが一つの大きな生態系であり、そこに生起する諸々の知性や能力を生物種と捉えているのだ。より拡張させて説明すると、生物種としての能力も一つの生態系として捉えることが可能であり(一つの能力の構成要素として無数のサブスキルが存在するため)、生態系と生物種のフラクタル構造が意識の発達に見られると考えられている。
そのため、このメタファーを使うと、建物の堅牢性に問題があった時に生じる人格障害のような現象は、人格という一つの生態系の病理であり、その病理の原因は、生態系内の何らかの生物種が異常発生していたり、ある生物種が他の生物種を過剰に食い殺していることにある、と説明することができる。
要するに、複雑性科学を発達心理学の領域に活用し始めている「新・新ピアジェ派」では、人間の意識(consciousness)や心(mind)を「建物」として捉えることから脱却し、生態系(ecosystem)として捉える流れになっているのである。
新・新ピアジェ派は、「発達段階が高度な段階に到達するためには、自我はどのような生物種を内側に抱え、それはどのような相互作用をする必要があるのか?」「生態系内の生物がどのような種類と質と量を持ち、どのような相互作用が行われると、生態系が進化、もしくは崩壊するのか?」という質問に答えるような研究を日夜進めているのである。
人間の意識や心、そして知性や能力の性質を考えると、生態系のメタファーの方が建物のメタファーより妥当であると判断し、この領域の探究をより進めていく必要があると私自身判断した。それゆえに、新・新ピアジェ派の巣窟であるフローニンゲン大学に進学することにしたという経緯がある。
生態系という発想も、実はもともとはジャームズ・マーク・ボールドウィンやジャン・ピアジェも持っていたものなのであるが、いつかを境目に「建物」という固定的・静的なメタファーで人間の発達を捉える風潮になってしまい、100年経って再び原点回帰するようにボールドウィンやピアジェのオリジナルな発想に戻って来たとみている。
最後に、その方からご指摘があったが、複雑性科学と発達心理学の横断的探究が主流になりつつある状況を鑑みると、ロバート・キーガンの構成的発達心理学やケン・ウィルバーの発達理論は過去の遺物となりつつあり、知性発達を真に理解しようとすると相当な学習量が要求されるようになってきているのだ。