先日、クライアントとのセッションの中で、一つ興味深い論点が浮上した。「父性」あるいは「力強さ」と呼ばれるものの大切さについて話題となった。
拙書『なぜ部下とうまくいかないのか:「自他変革」の発達心理学』を読んで誤解を与えてしまっていたのであれば申し訳ないのであるが、段階5を体得した人物は、決していい人でも優しい人でもない。確かに、段階5の人たちは独特な包容力や柔軟性を持っているため、それが「いい人」や「優しい人」という印象を与えてしまうのは理解できる。
しかし、段階5の人たちは、包容力や柔軟性の奥底にある種の「力強さ」を兼ね備えているのだ。この力強さゆえに、段階5の人は腑抜けた包容力や柔軟性ではなく、肝の据わった包容力や柔軟性を持つことができる。
段階4の人たちは、必死に己の刀を磨くことに心血を注ぎ、鞘から刀を抜いた状態で常に日々を生きている。一方、段階5の人たちは、錬磨された刀を鞘にしまいながらも、重要な局面においては慈愛に満ちた一太刀を振るうことができるのだ。
慈愛に溢れた一撃を放つことができる段階に到達する際に、自らの中に健全な父性を涵養することが一つ重要になると思った。それは往々にして、自らの中にある大切なものや譲れないものから育まれるものだと思う。
己の内側にある大切なものや譲れないものを発見・涵養する際に、健全な父性を携えた人物の存在が鍵を握る。父性の象徴はまさに父親であるため、その人物が自分の父親であることが一番望ましいことかもしれない。
林道義氏は『父性の復権』の中で、『「友達のような父親」は実は父ではない。父とは子供に文化を伝える者である。自分が真に価値のあると思った文化を教え込むのが父の最も大切な役割である』と述べているが、発達理論の観点からもこれは非常に重要な指摘だと思う。
人間の成長・発達は、必ず何かを乗り越える形で成し遂げられる。それゆえに、私たちの成長・発達には、乗り越えていくべき対象物が常に必要とされる。つまり、模範や規範を示す健全な権威は、成長・発達にとって不可欠な存在なのだ。
より普遍的な価値や深さを希求する純粋な心の動きに忠実になる時、それらをすでに体現している権威に師事しようとするのは当然の流れではないか。権威に師事し、その権威を乗り越えていくこと。それが成長・発達の否定できぬ姿なのだ。
自分にとっての権威的な存在は、何も生きている人物に限られるわけではく、過去の偉大な人物でもいいだろう。とにかく自分よりも普遍的な価値や深みを体得した人物に師事することが重要となる。そうした人物がいなければ、乗り越えるべき対象もなく、進むべき方向性も得られぬことになるだろう。
親が権威を持ち、子供の上に位置しているからこそ、子供は親を乗り越える形で自立の道を歩もうとする。健全な権威としての親がいなければ、子供は成長・発達の道すがら途方に暮れてしまうだろう。
成長・発達の探究者としての私にとって権威とは、ジェームズ・マーク・ボールドウィンやジャン・ピアジェのような過去の偉大な発達論者たちであり、ロバート・キーガンやオットー・ラスキー、そしてカート・フィッシャーなどは現存する権威たちである。
これから留学をするオランダのフローニンゲン大学でも新たな権威に師事し、そこから新しく何かを学び取っていくことになるだろう。「師匠越え」は、師に対する最良の恩返しである。
私はこれから何人の師匠に対して最良の恩返しをすることができるだろうか。