この一年間の日本滞在期間において、様々な人たちとの出会いがあったように思う。この限られた生命時間の中で、同じ場所と同じ時間を共有することができるというのは、やはり何か特別な意味があるのではないかと思わされる。
そうした意味において、人との縁というのは人知を超えた働きによってもたらされるものだと思うのだ。昨年の出会いの中でも、あえて故人に限定するならば、フランス文学者かつ哲学者である森有正先生(1911-1976)との出会いは格別のものであった。森先生の著作を読んだ時、いや、先生の思想に触れた瞬間、衝撃のあまりに涙が溢れてきた。
溢れてくる涙をそっと拭おうとしたが、優しく拭えるほどの涙では全くなかった。悲しみの感情はそこになかったのだが、それは慟哭に近い涙だった。
これほどまでに思索を通じて真摯に生き抜いた人に私は出会ったことがなかった。39歳の時、パリという異国の地で生活を始めてから、その地で客死するまでの26年間、「孤独」と「絶望」を排除することなく、それらを突き詰め、孤独と絶望の中を力強く生き抜いた先生の姿勢に心を打たれたのである。
そして、森先生の思想は、自分のこれまでの探究成果を全て根底から揺るがせてくれたのだ。私の過去の探究成果が揺らいだというよりも、それはけたたましい音と共に完全に崩れ去ったのだと思う。
森先生は徹頭徹尾一つ一つの言葉を大切にし、一つ一つの言葉の意味を長きにわたって思索し続けておられた。特に、「経験」や「感覚」という少数の概念を自らの経験と感覚を通じて何十年にもわたって思索し続けておられたのだ。
森先生の生き様と探究姿勢を見て、自分を捕まえて離さない幾つかの概念に対して、何年かかっても良いのでそれらの意味を突き詰めていきたいと思うに至った。そして、そうした過程において、それらの概念が自分にとって意味することの変容と成熟を見たいという気持ちもあることを隠せない。
やはりいくら学んでも分からないのだ。「成長」「発達」「変容」というものの正体が全く分からないのだ。これらの概念について探究を進めれば進めるほど、それらは全く新しい姿で自分の前に姿を表す。
確かに人は内面的な成熟を経ることによって、これまでとは違った意味を対象から汲み取ることができるようになる。問題はそこにない。問題は、内面的な成長がもたらす意味の変容のみならず、意味と密接不可分なイメージと感覚の変容であって、その変容がその人自身と取り巻く他者に与える作用にある。
また新しい探究課題が見つかったような気がした。正直なところ、人間の成長や発達に関するそうした探究課題に対してなぜ自分がこれほどまでに執着するのか、自分でも判然としていない。「成長」「発達」「変容」という言葉を絶えず頭で理解しようとする自分がいるし、それらの言葉を自分の内側に流し込み、感覚や経験を通じて何とかそれらの本質の欠片でも掴んでやろうとする自分がいるのだ。
結局、自分はこのプロセスの中で、このプロセスを通じて生きることしかできないのだと思う。
最後に、森先生の思想には、下手をすると近寄ってはならぬ妖気のようなものが立ち込めているのを強く感じる。そこに近寄るともはや二度戻っては来れないような世界が広大に展開されている、そんな気がするのだ。
私はそれでもその世界に入っていこうという決意をした。今後、自分の精神がどのような末路に行き着くのか定かではない。それでもその世界に足を踏み入れなければならない何かを自分の内側で感じているのだ。
そして、その感覚は内側に留まらず、もう外に溢れ出している。日本の夏はもうすぐそばだ。