——偉業は一時的な衝動でなされるものではなく、小さなことの積み重ねによって成し遂げられるのだ——ヴァン・ゴッホ
ゴッホが残した名作の一つ「ひまわり」が象徴する夏の季節までもう少し時間がかかるようだ。今のような梅雨の時期は、「ひまわり」が恋しくなる季節と言えるかもしれない。
今年の初旬にアムステルダムを訪れた際に、私はゴッホ美術館に足を運んだ。アムステルダム駅から道に迷いながらも、アムステルダムの街並みを堪能しながらそこへ向かった。アムステルダムの前に訪れた英国ケンブリッジとはまた違うヨーロッパの姿がこの街にあった。
目的とするゴッホ美術館に隣接する形で、アムステルダム国立美術館が建立されており、アムステルダムは芸術の街だと改めて感じていたのを思い出す。
ゴッホ美術館には、ゴッホが残した作品の数々が所蔵されているだけではなく、関連資料も豊富に所蔵されている。そのため、ゴッホ好きにはうってつけの美術館だと言える。
しかし、正直なところ、私はゴッホの作品に感銘を受けたことはほとんどない。ゴッホはポスト印象派の代表的な偉大な画家であることは間違いないが、私は印象派の絵画よりも、極度に抽象的な絵画を好む傾向にある。
そのため、ゴッホは私にとってそれほど近い存在ではなかったのだ。だが、この美術館を訪れ、ゴッホについて知れば知るほど、自分の中にゴッホを見出したような感覚に囚われたのだ。
所蔵されている作品を眺めているだけでは分からなかったゴッホの姿が、所蔵されている関連資料に目を通していくことによって徐々に浮き彫りになっていったのだ。端的に述べると、ゴッホが挫折に次ぐ挫折の連続の中、それでも絵画作品を描き続けたことに感銘を受けたのだ。
壮絶な人生の中で、絵画作品を世に創出し続けたその姿勢を目の当たりにした時、私の中で激震が走った。当時の私は、自分の専門領域をさらに拡張させ、新しい領域に足を踏み入れようとしていた。
ゴッホが本格的に絵画のトレーニングを開始したのは20代の後半であり、そこから37歳という短い生涯を閉じるまで、膨大な作品を生み出していったことに対して大いに励まされたのだ。
絵画に関する伝統的な教育を全く受けずに、ゴッホは独力で自分の道を切り開いていった。ゴッホの鍛錬の仕方と量は、自分が理想とするようなあり方を体現しているように思われた。
この美術館を訪れるまでは、ゴッホは私にとって遠い存在であった。しかしながら、この美術館を訪れたことによって、あるいはゴッホの生き様と真摯に向き合うことによって、ゴッホはもはや私にとって近しい存在となった。
いつも思うことがある。未知な場所を訪れ、未知な人と出会うことによって、自分という存在はその場所に他ならず、その人に他ならないということに気づかされるのだ。
アムステルダムを訪れることによって、自分の内側にアムステルダムを見出したし、ゴッホと真剣に向き合うことでゴッホを自分の内側に見出した。「私」という存在の境界線は、ここ数年間ひどく揺らいでおり、境界線なるものは実線ではなく点線になりつつあるのだろうか・・・。
私がアムステルダムでありゴッホである、アムステルダムとゴッホは私である、という不思議な感覚に包まれたことを今ありありと思い出す。