東京は本日も雨ですね。皆さんのお住いの地域の天気はいかがでしょうか。
一日たりとも同じ雨の日はなく、一滴たりとも同じ雨滴がないというのは不思議ですよね。こうした不思議さに畏敬の念を覚えながら、是非とも今日の雨を「味雨」したいものです。
今回の記事は、拙書 『なぜ部下とうまくいかないのか:「自他変革」の発達心理学』の読者の方から頂いた質問に対する応答です。今回のご質問はなかなか手強いものでありながらも、発達という現象を深く理解するために非常に重要なトピックだと思います。
質問:ポストモダニズムの主要な論点の一つは、「構造がどのように生み出されるのか?」であると思いますが、この点に関して、構造主義発達心理学は何らかの知見を持ち合わせているのでしょうか。
回答:「構造がどのように生み出されるのか?」という質問は、「次元がどのように生み出されるのか?」と同じぐらいの難問であり、発達理論ゼミナールの中でもお目にかかったことのない質問です。構造主義的発達心理学において「構造」と呼ばれるものは、「意識段階」や「知性段階」という概念と対応しており、それらは内面宇宙(心理空間)における次元のようなものだと私は捉えています。
「構造がどのように生み出されるのか?」という問いに真っ向から回答しようとすると非常に難しいので、構造主義的発達心理学において、「構造」がどのような特性を持つものだと想定されているのかを俯瞰し、そこから構造の創出メカニズムに迫ってみたいと思います。
構造主義的発達心理学の変遷を辿ると、ピアジェ派、新ピアジェ派、新・新ピアジェ派(第三世代)という三つの潮流があり、それぞれ構造の捉え方が異なります。ピアジェ派は、ピアジェが提唱したように、意識段階を固定的なものと捉えていました。つまり、ひとたび構造が構築されると後戻りできず、構造は決められたプロセスを経て次の構造へ至ると考えられていました。
しかし、ハーバード大学教育大学院教授カート・フィッシャーやロバート・キーガンを始めとした新ピアジェ派は、構造を固定的なものではなく、変動的なものとみなしています。これは現在でも通用する考え方です。要するに、ひとたび構造が構築されたとしても退行現象が生じたり、一つの決まりきった道ではなく、多様なプロセスを経て次の段階に至るという考え方が広く受け入れられつつある、という現状があります。
新・新ピアジェ派(第三世代)は、複雑性の科学を発達研究に取り入れ始めた学派であり、彼らは人間の発達をより動的かつ複雑なものとみなしています。ケン・ウィルバーのインテグラル理論で指摘されているように、内的宇宙と外的宇宙は互いに別の領域でありながらも、相互作用をすることによって共存在していると言えます。
思うに、内的宇宙における構造は、外的宇宙における構造に応じて立ち現れると捉えています。つまり、私たちが置かれている文脈や与えられるタスクには固有の構造特性(次元)が内包されており、私たちがそれらと接触した瞬間に、内的宇宙に構造特性(次元)が発露すると考えています。
非常にわかりにくいので簡単に説明すると、新・新ピアジェ派(第三世代)においては、私たちは一つの固定的な構造を通じて生きているのではなく、置かれている文脈や環境によって千変万化する無数の構造を通じて生きていると考えています。そのため、キーガンの段階モデルだけを頼りに、「あの人は発達段階4」とレッテル貼りをすることはほとんど無意味だと言えます。
私たちは、少なくとも数十個の発達領域を抱えながら生きており、しかも、それらの領域における発達レベルは刻一刻と変化するリアリティの中で激しく変動します。こうした認識は、この現実世界における様々な現象は相互に影響を与え合いながら無限に重なり合っている、という華厳思想の考え方に近いかもしれません。
上記の考え方を基にすると、「構造」というものは、そもそも内的宇宙にも外的宇宙にも常に偏在しており、構造主義的発達心理学は、構造がどのように生み出されるのかという問いに直接答えることはできず、すでに生み出されている構造のうち、発達心理学の枠組みで可視化可能なものを構造と定義することしかできないのではないかと思っています。
つまり、構造主義的発達心理学は、無限の階層を持つ出来合いの建物に対して、「ここからここまでは2階と3階、ここからここまでは3階と4階」というように、建物を非連続的な階層に区分けしていきます。
建物というのは本来単純に階層を区切ることはできず——実際に2.5階部分や2.49階部分が存在する——、連続的な構築物ですが、整数階には紛れもなく人間が活動できる空間が存在するということを私たちは可視化することができ、そうした事実を持ってして「構造」と切り分けているのに過ぎないと考えています。
端的に言うと、構造は発達心理学者が様々な測定手法を使うことによって可視化されるものだと考えています。ウィルバーが指摘するように、このリアリティは上にも下にも無限のホロン階層を持っており、発達心理学者は、連続的な発達現象の中に非連続的なホロン階層を見出すことを行っているのだと思います。実際に、キーガンは発達段階2から発達段階5の間に16個の構造を見出しており、これはその一例です。
意識の発達に限定して述べると、私たちの意識はある規則性に則って絶えず運動をしており、その運動プロセスは不規則な動きを見せますが——私たちの意識はある規則性に則って不規則な運動を行うというのは、複雑性の科学に影響を受けている新・新ピアジェ派の発見事項です——、そうした不規則な揺らぎの中で刻まれた道が構造として発達心理学者の目に可視化されるのだと考えています。
長くなってしまいましたが、結論としては、意識段階や知性段階といった構造は、私たちが絶えず外的宇宙と相互作用を行い、ある規則性を持って不規則に運動するプロセスの中で把捉可能なものとして浮き上がってきたものだと捉えています。そのようにして生み出された道を発達心理学者は「構造」として定義しているのだと思います。
ここ最近ようやく、「私たちのリアリティはホロンである」という本当の意味を理解し始めている気がしています。まさに、私たちのリアリティはホロンに他ならず、構造に他ならないのです。ですが、その構造は微分のように、無限に小さく切り刻むことができてしまうような性質を内在的に持っています。
そうしたことを考えてみると、「構造はどのように生み出されているのか?」という問いは、「リアリティはどのように生み出されているのか?」と同義であると感じた次第です。発達心理学者はそうした形而上学的な問いを真っ向から取り扱うことはできず、彼らが行っているのは、すでに顕現されたリアリティの中から構造を見出していく作業だと言えそうです。
今回いただいた問いについてあれこれ考えていると、「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」というヴィトゲンシュタインの言葉をふと思い出しました。この言葉を上記の内容を踏まえて発達理論の観点から再解釈すると、「意識発達に潜む神秘とは、ホロン(階層構造)がいかにあるかではなく、ホロンがあるというそのことである」と思わされました。
【質問者の方からの応答】
問5については私もかなりヘビーだなと思っていまして、見通しすら立たない状態でしたが、ご回答いただき、当初の問題意識とは別の視点に導いていただいたように感じております。いや、無数の「曖昧なもの」が私を取り巻く世界へといざなわれて、さらに混乱をきたしはじめたということもできるかもしれませんが、問題が問題だけに、混沌の中に投げ込まれるのは必然的であろうという気もいたします。
前言と矛盾しているようですが、頂いた問5に対する回答は非常に解りやすく、特に不明な点などはございません。問5はいかに難しい問題であるかということを、加藤さんが理路整然と的確に説明してくださったので、「構造の生成」については簡単には論じられないということ、それはなぜなのかということ、そして、その代わりに何を語りうるのか、ということがよく理解できました。
「構造の生成」の問題は、おっしゃるように、つまるところ「リアリティの生成」と繋がっているどころか同義である、ということも納得がいきました。そして、自分が恐ろしい質問を平然とかつ漠然と投げかけていたことにも気づかされ、恐縮いたしました。
「意識発達に潜む神秘とは、ホロン(階層構造)がいかにあるかではなく、ホロンがあるというそのことである」というご指摘も、まさしくその通りだと思いました。いや、私の場合は神秘に震撼するというよりは、呆然自失の体で立ち尽くしている感じかもしれませんが……。そういったわけで、なかなか加藤さんにお返しする言葉も見つからない状態でした。
しかしながら、今回のやり取りを通して、「構造とは何か」という論点については、かなり理解を深められたと思っています。ありがとうございます。
考えがうまくまとまらないので、応答というほどのものではなくほとんど独白であり、しかも稚拙な表現になってしまい申し訳ないのですが、敢えて正否にも無頓着に所感を記します。ことこの論点に関しては、一見取るに足らないと思える感想にも、何らかの意義が隠されているかもしれませんので。
まず、すくなくとも私は月並みに、もっぱら構造がわれわれの認識を規定しているというように考えていたのですが、にもかかわらず、その規定要因である構造を対象化して分析することができるという謎に、目も眩むような感じがしました……。
そうですね、表現をすこし変えれば、構造が主体を規定しているにもかかわらず、主体(の問題意識)がある意味主観的にリアリティから構造を切り分けているようにも見える、という不思議に驚かされたということでしょうか……。規定するものを規定されるものが規定しているという、ややこしい構図ですが、太極図のように、規定作用の主体と客体が互いに入り組んでいるというイメージが頭に浮かびます。
であれば、実のところ、「主体は構造にやられっぱなし(現代の思想・哲学の流れをふまえた比喩的表現)」というわけではなく、「構造が主体を規定すると同時に、主体が構造を(に)切り分けることで構造を規定するという双方向的な作用が存在する」のではないか、とも考えてしまいます。言い古された感のある「構造が主体を規定する」という常套句にも、どこか言葉が足りないところがあるのではないか、というようにも思われました。
もっとも、構造を切り取る主体もまた構造に埋め込まれており、その切り取り方にも相同性が看取される、ということなのかもしれませんが、なんだかわけが分からなくなってきました……。
「そこで密かに発見されることを待っている静態的・純客観的な構築物としての構造」という私の構造に関するイメージが間違っていたのであって、「構造は切り分けられることで初めて構造と化す」ということなのかもしれません。だとすれば、構造の切り分け・抽出は目的論的態度や志向性から必ずしも自由ではなく、やはりそこには「当為(規範)への意志」が見え隠れしているようにも思われます。
構造を切り分ける当のわれわれもまた構造に埋め込まれた存在であり、その構造に特有の道具(色眼鏡やナイフ)でもってして世界を眺め構造を切り分ける作業に従事しているのなら、その抽出作業によって暴き出される事実は真であるという以上に善美の事柄に近いのではないか、とも思われるのです。
また、構造が主体の作用(切り分けるという行為)を受ける対象であって、また微分可能な対象であるのならば、しまいには微分が構造を崩壊させてしまうのではないか、つまり、構造を徹底的に微分することで結局構造は寸断され、その網目を破って多分に主体的な主体が生成するのではないか、などとも漠然と考えました。
ホロンが無限に細分化して構造体としての形態を失い、構造に捕えられていると思っていた人間がわらわらと脱走しはじめる、いうイメージでしょうか……。このイメージもまた、「主体が構造を(に)切り分けることで構造に作用を及ぼしている」という事態の反映です。こうなると構造はもはや構造ではないようにも思われ、掴みかけていた私なりの「構造像」もかなり怪しくなってきてしまいました。
そもそも認識問題には、主体と客体がメビウスの輪の内で結び合わされているとたとえられるようなところがあって、私には非常に難しい問題であるように思われます。同じように、発達理論にも認識が認識に――あるいは、主観が(共同)主観に、でしょうか――気づくようなところ、もしくは色眼鏡をかけて色眼鏡の分析・研究をしているようにも思われるところがあって(これは学問一般の宿命でしょうが)、それが成人の発達が一筋縄ではいかないことの一因であるようにも思われます。
構造についての理解を深めたことは確かなのですが、何かまた新しい問題意識が生まれつつあるようです。
とりとめもなく書き連ねてしまったので、以下ポイントとなる箇所を抜き出しておきます(とりわけ3は直感的で論理性に欠けますが)。
1.構造が主体を規定すると同時に、主体が構造を(に)切り分けることで構造を規定するという双方向的な作用が存在するのではないか。
2.構造の切り分け・抽出は目的論的態度や志向性から必ずしも自由ではなく、やはりそこには「当為(規範)への意志」が見え隠れしているようにも思われる。
3.構造を徹底的に微分することで結局構造は寸断され、その網目を破って多分に主体的な主体が生成するのではないか。
【私の応答】
ご返信いただいた回答を何度も唸りながら拝読させていただきました。お送りいただいた3つの論点は、私の思考の範疇を凌駕していると理解していますが、それらについて私なりの所感を記させていただければと思います。
1について:「構造は主体を規定するのと同時に、主体が構造を(に)切り分けることで構造を規定するという双方向的な作用が存在するのではないか」とご指摘いただき、青天の霹靂のような認識に誘われました・・・。例として挙げていただいた太極図は、主体と構造の密接不可分性・相互依存性を表現する非常に的確なシンボルですね。
もし仮に、「構造が主体を規定するのみであり、主体は構造を切り分けず、構造を規定することはない」という反命題のようなものを設定してみると、やはりおかしなことが起きます。この反命題においては、本来、「認識主体」という能動的な働きを持つはずの主体が、構造によって単純に規定されてしまうだけであるという、実に受動的な存在に貶められてしまうことになります。
井筒俊彦氏が指摘するように、私たちの意識(特に言語を司る意識)は、「分節化作用」を持っており、この作用によって、混沌としたリアリティから意味を切り取って(汲み取って)独自の意味世界を構築していきます。もし私たちが、分節化作用という能動的な力を持っていなければ、渾然一体としたリアリティの渦に飲み込まれ、私たちは意味的存在——意味を構築し、意味を保持する存在——としてもはや存在できなくなるのではないかと思われます。
そのため、主体としての私たちの意識は、積極果敢にリアリティを切り分ける——ひいては構造を切り分ける——という特性を不可避に持ち合わせていると言えそうです。そう考えると、主体と構造の相互作用を無視した上記の反命題のようなものは、意識を持つ主体の根本的な特性を無視しているという点において、大きな誤りがあると思います。
それゆえに、この反命題は棄却され、「構造は主体を規定するのと同時に、主体が構造を(に)切り分けることで構造を規定するという双方向的な作用が存在する」という命題の信憑性は疑うことができないのではないかという考えに至っています。
そして、これまでの説明は2の論点にも関係しているように思われます。というのも、私たちの意識が持っている、この積極果敢かつ能動的な意味生成力こそが、目的論的態度や志向性の源泉なのではないかと思うからです。
意味の中に目的論的態度や志向性が内包されていなければ、私たちの存在が安住できる意味世界が構築されないのではないかと思います。つまり、意味と志向性は、密接不可分のようなものなのではないかということです。
しかも、この意味生成力は、「当為への意志」に立脚して初めて存在しうるものであり、単に乱雑な意味を生成しているのではなく、そこで生成される意味はまさに独自の規則性・規範性を内に抱え込んだものになるのではないかと思われます。
こうなってくると、私たちの存在はもはや、意味を生み出す意味の凝縮体であり、意味に志向性や当為への意志が不可分に付きまとうのであれば、私たちの存在は志向性や当為への意志に他ならないのではないか、という存在者の究極的な側面が見えてきました。
3について、これは実に興味深いご意見ですね。一点ほど、私の説明が不足しており、申し訳ございませんでした。確かに、リアリティはホロンで構成されており、ホロンを無限に微分的に切り刻んでいくことができると思うのですが、ホロン構造の中には微分不可能な結晶体のようなものが同時に存在しているようにも思うのです。
無限に微分することができると言っておきながら、微分が及ばない対象物が存在しているというのは、どこか矛盾しているように自分でも思います。しかし、この微分不可能な結晶体こそ、そのホロンを存在たらしめているものだと思うのです。
例えば、「私とは何者か?」という問いを立て、それについて答えようとするとき、「私は男性である」「私は学者である」「私は30歳である」というように、「〜である」という表現で自分という存在を定義していく方向性があるのと同時に、「私はアメリカ人ではない」「私は子供ではない」「私は運転免許書を持っていない」というように、「〜でない」という表現で定義づける方向性も存在しています。どちらのアプローチも、私の中では微分するというイメージに近いです。
しかしながら、「私は〜である」「私は〜でない」という微分的なアプローチを無限に繰り返したとしても、結局、私の存在の核たるものを定義することはできないように思うのです。仮に、存在者の核たるものを本質(=魂=内在神=仏性)と名付けるならば、やはりそれは、微分の及ばないものではないかと思うのです。
存在者の本質を数学における「点」のようなものだとみなすと、点は縦と横を保持していないため面積を持ちませんが——数学的な意味において、微分は曲線上の点に対して実行されるものであるため、存在者の本質(=点)は「積分できない」と表現した方が正確なのかもしれません——、面積がゼロにも関わらず存在しているものとみなされる不思議な存在です。
そして、構造も一つの存在者とみなすと、構造にも微分不可能(≒積分不可能)な極地が存在し、それが構造の本質なのではないかと思います。ここに、構造が構造として存在する立脚点が存在することになり、この立脚点と主体たる私たちの本質(=点)が折り重なるところに、構造と私たちが同時に顕現するのではないか、という考えに至っています。
結局のところ、この考え方は、構造と主体の双方の存在性を擁護したい(全ての存在者を崩壊・消滅から擁護したい)という私の個人的な思いの表れに他ならないのかもしれません。