——生きた、愛した、書いた——スタンダールの墓碑銘より
澄み渡る朝の静けさの中に小鳥のさえずりを聞いて目覚めた。起床後、すぐに窓を開け、その日の搾りたての空気とエネルギーを全身に注ぎ込む。
電車が無機質かつ暴力的な音を立てながら走り去った。静かな音楽を届けてくれている小鳥たちに謝りたい気持ちだった。自然的な交響曲と人工的な不協和音から今日という一日をスタートさせる。
知性や能力の発達に不可欠なものは何か?それは生得的な要因や後天的な要因を含めて様々なものがあるが、一つ間違いなく重要なものとして、その領域における圧倒的な量の鍛錬が挙げられる。
自戒の念を込めて言うと、私は自分の専門領域おける過去の鍛錬が非常に手ぬるいものであったと思っているし、現在の鍛錬に関しても質・量ともに改善の余地が大いにあると思っている。毎日、自分の鍛錬の量と質に関して内省し、手探りの状態が常に続いている。
特に、私が最も反省をしているのは、「書く」という行為をこれまで相当疎かにしていたということである。足りないのである。圧倒的に足りていない。そんな欠乏感が日増しに強くなってきている。
私が在籍していたマサチューセッツ州のレクティカという研究機関が興味深い実証結果を提示していたのを思い出した。言語が媒介される能力領域において、その能力を高める最も重要な要因は「教育」であることがわかったのだ。
もう少し丁寧に説明すると、企業社会を例にとれば、論理思考や戦略思考と呼ばれる言語と密接に関係した能力を向上させるためには、高等教育が重要になるということである。実際の調査結果では、ある専門領域で高度な能力を獲得していた人は、その専門領域における修士号や博士号を必ず取得していた。
企業社会で要求される能力を高める際に、経営学関連の修士号や博士号を取得する必要があると安直に言うことはできないが、そうした高等教育に準ずる専門的なトレーニングを積む必要があると思う。なぜ修士号や博士号を取得した人がその専門領域で高度な能力を獲得できたのかを考えてみると、圧倒的なインプットもさることながら、「書く」という圧倒的なアウトプットがトレーニングの核にあるからだと思う。
レクティカが実施したこの調査は、米国で修士号や博士号を取得した人を対象にしていた。私は日本の修士課程や博士課程について疎いのであるが、米国の修士課程や博士課程では徹底的に書くという鍛錬に否応なしに従事させられる。
膨大な量のアウトプットを経てきた人が、自らの専門領域で高度な能力を獲得できるというのは頷ける。なぜなら、特定の専門領域である能力を涵養する際には、必ずその領域における「実践」を積み重ねる必要があるからだ。言語を媒介にする知性領域における最良の実践は、「書く」ということなのではないかと思わされる。
レクティカの発達測定モデルは、元ハーバード大学教育大学院教授カート・フィッシャーの「ダイナミックスキル理論」をもとにしているとこれまで紹介してきたが、フィッシャーの理論で言うレベル12に到達するためには、圧倒的な知識量と圧倒的な知識咀嚼実践が不可欠となる。
驚くほど文章を書かない自分に対して反省の念を込めつつ、強く勧めたいのが圧倒的な量の文章を書いていくということである。成長していないことを嘆くビジネスパーソンを頻繁に見聞きするが、それは「書く」という最も根本的な修練が多分に欠如しているからではないかと思う。
自分は勉強していると思う人は、その勉強量が少なく見積もっても数十倍足りていないと想定しておいたほうがいいだろうし、何よりも勉強した知識を血肉化させる実践、すなわち「書く」ということを相当怠っているのではないかと思われる。
企業の人財育成の領域において、「内省」の重要性が近年提唱されている。確かに、内省は成長・発達に関して意義のある実践だと思う。しかし、頭の中で単発的に行われる内省など、真の意味での内省ではないと思うのだ。それはどこか、夢の中で流れる雲を純朴に見つめることに等しいように思われる。
そのような実践で成長できるほど、人間の成長は甘いものではない。頭の中での単なる振り返りではダメなのである。書くことを通じて、知識や経験を自らに刻み込んでいくことが必要になると思うのだ。知識や経験を自らに刻み込み、それらを引き受けられる人にしか成長は訪れないのかもしれない。
企業に発達支援コーチングを提供させていただく際には、必ずクライアントの方に「書く」ことを通じた内省を奨励している(実際は、「内省レポート」という形で強制的に文章を書いてもらっている)。「書く」ことを他者に推奨しているため、自分も書くことを継続させていく必要があると強く感じている。