私がフローニンゲン大学に留学することを決定付けた人物、それがポール・ヴァン・ギアートである。ヴァン・ギアートがいなければ、発達科学と複雑性科学の接点に出会うこともなかっただろうし、自分の研究や実践に複雑性科学のアプローチを採用しようと思わなかっただろう。
何より彼がいなければ、幾分日本と離れたオランダという地に渡ろうと決意しなかったと思うのである。
ヴァン・ギアートの最大の功績は、発達科学と複雑性科学を架橋し、複雑性科学の代表的な理論であるダイナミックシステム理論を発達研究に適用する道を切り拓いたことにあるだろう。
また、ヴァン・ギアートは、元ハーバード大学教育大学院教授カート・フィッシャーと並ぶ構造的発達心理学の二大巨頭の一人だと私は思っている。二人の巨頭は、キャリアの終焉まで研究一筋で貫いてきた生粋の発達科学者であり、25年以上にわたって二人は共同研究を行う間柄であった。
ヴァン・ギアートの主著 “Dynamic Systems of Development (1994)”を見ると、フィッシャーとの出会いのエピソードや共同研究の話が記載されており、それを読むたびに二人の関係性の深さが伺える。
1989年の夏、カート・フィッシャーがレクチャーをするために南ドイツのどこかの都市を訪れた。その時、フィッシャーはヴァン・ギアートが住むオランダに向かった。
ヴァン・ギアートは当時を回顧して、アメリカ人のフィッシャーにとって南ドイツは地球の果てであっただろうし、オランダの片田舎までわざわざ足を運んでくれたことが素直に嬉しかったと述べている。ヴァン・ギアートの自宅で、二人はお互いの関心テーマと研究手法に関する議論に耽ったそうだ。
フロイトとユングが初めて出会った時に、数十時間に及ぶ議論に花が咲いたというのは非常に有名なエピソードであるが、そのエピソードを彷彿させるものがある。結果として、それから数年後、フィッシャーはスタンフォード大学の行動科学研究所で発達科学の最先端研究グループを立ち上げた際に、オランダからヴァン・ギアートを呼び寄せ、ダイナミックシステムモデリングの可能性について共同研究を進めていったそうである。
私にとって最も微笑ましいエピソードは、ヴァン・ギアートの農園にある羊小屋でフィッシャーが一夜を明かしたことだった。ヴァン・ギアートの自宅にゲストルームはなかったのか?確かにフィッシャーは、行動主義心理学の始祖バラス・スキナーに師事をして、ハトの運動感覚的知性の発達に関する博士論文を提出してハーバード大学から博士号を取得しているため、動物好きであり、もしかしたら羊好きなのかもしれないという空想が膨らむ・・・。
いずれにせよ、二人の関係の深さを示すエピソードには心温まるものがあった。そんな二大巨頭が発達研究の現場から引退してしまったことは非常に残念である(フィッシャーは2014年に引退し、ヴァン・ギアートは2015年に引退)。
しかし、二人が共同研究で残してきた数々の成果は発達科学の歴史にしっかりと刻まれ、それらは綿々と受け継がれていくものだと思う。実際に、私を含め、フィッシャーやヴァン・ギアートから多大な影響を受けた世界に散らばる若い世代の研究者は、彼らの研究アプローチを伝承し、発達研究をさらに一歩前に進めようと日々精進している。
フィッシャーが引退する前年に彼の研究室を訪問し、フィッシャーと直接話をする機会が得られたこと。ヴァン・ギアートは現場から引退したとのことであるが、非公式にヴァン・ギアートから直接教えを受ける機会がフローニンゲン大学で得られるということ。些細なことのように見えるかもしれないが、研究者としての歩みを進める私にとって、それらは非常に重みのある意味を持っている。
ヴァン・ギアートに連絡をすることによって、私の論文アドバイザーを務めてくださることになるサスキア・クネンという研究者を紹介していただいたこと、400年を越す歴史を持つフローニンゲン大学で今年から新設される「タレントディベロップメントと創造性」というプログラムを紹介していただいたことによって、自分の道が新たに開けたと思っている。
ダイナミックシステム理論の数式モデリングを発達科学に活用した研究を推し進める「フローニンゲン学派」を打ち立てたポール・ヴァン・ギアートに多大な感謝の念を持つとともに、オランダの地で彼に会えることを心待ちにしている。
【ポール・ヴァン・ギアートの推薦書籍と推薦論文】
ヴァン・ギアートの主著“Dynamic Systems of Development (1994)”は、PDF形式で公開されている。ダイナミックシステム理論を活用した発達研究とは、どのようなものなのかを掴むのに最適の書籍である。また、数式モデリングを構築するためのエクササイズも豊富にあるため、手を動かしながら書籍の中へと入っていける。
画家でもあるヴァン・ギアートの作品を楽しみながら、その他の論文も読んでみたい方は、彼のウェブサイトを閲覧することをお勧めする。
少し難解かもしれないが、心理学の学術誌の中で最も権威のある「Psychological Review」に掲載された二本の論文も輝きを放っている。