——人生の究極的な意味は、私たちの理解できる範囲を超えている。けれどもそれは、それを欠いては私たちが生きていくことができなくなるような何かである——ヴィクトール・フランクル
何かを表現するというのは、自分の内側にある何かを開くことである。自分にとって何かを表現する一つの手段が書くことであるならば、書くことは自己の内側の何かを開くことである。
「発達(development)」の語源は、フランス語の”desvolper”であり、それは「開く(拓く)」という意味を持つ。つまり、発達とは自分の内側に隠れている何かを開いていく営みなのである。
私にとって、「書く」という行為は、自分の内側に隠秘されているものを開いていく営みに他ならないのだと思う。書くことは開くこと。
座禅や瞑想などの実践修行なくして、ひたすらに書くという行為を通じて自己の内面に光を与え続け、悟りの境地に至ったラマナ・マハルシの存在をふと思い出す。「書く」という一つの実践について考えれば考えるほど、書くことの中には神秘的な力が宿っているのかもしれないと思わされる。
また、書き言葉は時空に刻まれるという特徴を持つ。ある人の書き言葉は、時空を超えてまた別のある人へ届くのだ。
ジョン・ロック、イマニュエル・カント、森有正の書き言葉に今日触れた。彼らは今日この世にいない。それでも彼らの言葉は紛れもなく私に届いたのだ。
一方、話し言葉には一瞬の輝きはあるものの、時空に根を張ることなく、虚空の彼方に消え去ってしまう。書き言葉と話し言葉にはそんな違いがある気がする。
昨日、教育哲学者のパウロ・フレイレの主著 "Pedagogy of the Oppressed (1970)”を読んだ。本書の中でフレイレは、真の意味での実践とは行為と内省が結び合わさったものであると述べている。
真の意味での実践を形作る行為と内省の媒介者として、「書く」という営みがあるように私は思う。すなわち、私にとって書くことは、行為と内省の間隙に存在する価値ある営みであり、両者を架橋する貴重な媒介者なのだ。
書くことによって、行為と内省は実践へと昇華され、深く生きることを可能にしてくれるものなのだ。「書く」ことは、今の私にとってそのような意味を持つらしい。
書くことによって、自らの言葉をこの時空に刻み込む。刻みながら進む。何かを刻印することなしに、私はもはや先に進めなくなっている。
今日も書くことによって今日を刻む。明日も書くことによって明日を刻む。今を今刻むことによって、今を今引き受ける。今を刻むその果てに、これまでとは違った今が開かれる気がするのだ。