先日、恩師であるオットー・ラスキーからメールをいただいた。私がオランダに留学しに行くということを告げて以来、メールの最後には必ずオランダ語で書かれたメッセージが残されている。「オランダ語も学びなさい」という親心だろうか。
話によると、ラスキー自身も若い頃、7年間ぐらいオランダで生活をしていたそうである。彼は言語に堪能であり、実に多くの言語を操ることができる。
4年前にマサチューセッツ州郊外の自宅にお邪魔させていただいた時、書斎の上に、読み込まれたスペイン語の辞書が置かれていた。80歳を過ぎても旺盛な思索活動を継続させ、多くの言語に親しもうとする姿勢には頭が下がる思いであった。
それに引き換え、私はどうだろうか。今度のフローニンゲン大学でのプログラムはすべて英語で行われ、英語さえできれば正直なところオランダで生活する上で大きな支障はない。今年初旬にオランダを訪問した時にそのようなことを感じた。
実際に、フローニンゲン大学の教授や留学生課の方たちと雑談をしていても、取り立ててオランダ語を学ぶ必要はなく、英語が堪能であれば問題ないということを指摘していた。現地語を飲み込んでしまう英語という普遍語は、実に恐ろしいものだと思った。
しかし、オランダ人同士が対面した際には、英語ではなくオランダ語が紛れもなく用いられているということ、現地語はその国の文化の結晶体であるということを考えると、怠惰に英語に依存してばかりいてはならぬと思う。
少し前から、オランダ語のオンラインコースに参加登録をしたが、学習がほとんど進んでいない。当初は、オランダを代表する哲学者スピノザの書籍——特に、フローニンゲンの街の古書店で見かけた"Tractatus de Intellectus Emendatione (邦訳『知性改造論』)"——を原著で読みたいと思っていたが、それほどまでに高度な読解力をオランダ語で身につけていくことに対して、やはり二の足を踏む自分がいる。
それでも重い腰を上げて、オランダ語の上達に向けて学習を進めていきたいと思う。こうしたことを考えながら、英語というのはつくづくやっかいな言語だと思った。普遍語としての地位に君臨しているが故に、その影響力が途轍もないのだ。
英語をひとたびある程度のところまで習得してしまうと、他言語の習得に対して怠惰な姿勢を助長するだけではなく、現地語でしか開示しえぬ価値や深さに対して敬意を表することを忘れがちな態度を生み出してしまう。
それはある意味、英語による言語空間のフラットランド化と言えるだろう。オランダ在住中は、そうした英語による言語空間のフラットランド化にも果敢なる戦いを挑む必要がありそうだ。
ラスキーからの何気ないオランダ語でのメッセージから、上記のようなことを考えさせられた。