質問:キーガンやラスキーは構造的発達心理学に属するようですが、従来の心理学にも成人の発達を扱う理論は存在したと思いますし、エリクソンやマズローもある意味構造主義的であったようにも思われます。「ある意味構造主義的」というのは、「段階」や「階層」というタームがそういう匂いを醸し出しているという意味合いです。そういった従来の心理学と構造主義発達心理学が異なるのだとしたら、それはどういう点においてなのでしょうか?
回答:おっしゃる通りで、エリク・エリクソンは成人発達理論の大家ですし、エリクソンの理論モデルを含め、アブラハム・マズローの欲求階層モデルもある意味構造主義的であると思います。
まず、エリクソンの発達理論はどちらかというと、タイプ論的(類型的)な特質を持っていると見ています。エリクソンは、年齢を基準として8つの段階モデルを提唱し、各段階には固有の発達課題があることを明らかにしました。
例えば、20歳から39歳にある人々は「親密さvs孤独」という発達課題を抱えるとされています。ここでキーガンが着目したのは、仮に30歳のAさんとBさんが「親密さvs孤独」という発達課題を抱えていたとしても、AさんとBさんが「親密さ」と「孤独」に対して付与している意味は、全く次元の違うものである可能性が存在するという事実でした。
本書の言葉を用いると、他者と単純につながっていることで安心感を得たいという意味の「他者依存的な親密さ」もあれば、お互いの価値観を確認し合った上で、お互いの人格的成熟につながるような深い交友関係を築きたいという意味の「相互発達的な親密さ」もあります。
要するに、エリクソンは、一つ一つの発達課題が持つ重層的な意味に焦点を当てることなく、年齢を基準として、発達課題の整理・分類を行ったのに対し、キーガンはそれぞれの発達課題が持つ重層的な意味にまで踏み込んで段階モデルを構築したと言えます。
興味深いことに、キーガンは「構成的発達心理学(constructive developmental psychology)」という言葉を生み出し、自分の理論モデルを「構造的発達心理学(structural developmental psychology)」に位置付けるのではなく、構成的発達心理学に位置付けています。
キーガンはエリクソンから多大な影響を受けながらも、単純に年齢階層に応じた発達課題を示すことに疑問を感じ、発達課題一つとってみても、個人個人でそこに付与する意味が違うことに着目し、意味を構成する機能がより複雑になっていくことを発見しました。
私たちは意味を構成(構築)する生き物であり、意味を付与する機能そのものが階層的に複雑になっていくことを捉えて、キーガンは「構成的発達心理学」と命名したのだと思います。
最後に、マズローとキーガンの発達理論の違いを簡単に述べると、それらは対象とする発達領域に違いがあるだけであり、マズローはエリクソン寄りではなく、キーガンやラスキー寄りの構造的発達心理学者(厳密に言うと「構成的発達心理学者」)とみなすことができると考えています。
マズローはエリクソンのように年齢を基準とするのではなく、「欲求」を生み出す機能の質的差異に注目し、欲求を生み出す機能には階層性があることを発見しました。
同様に、キーガンは意味を付与する機能の質的差異に着目し、その階層的な発達プロセスを明らかにしたという点において、マズローとキーガンは対象とする発達領域に違いはありますが、どちらもエリクソンのようなタイプ論的な発達理論とは異なると理解しています。
【質問者の方からの応答】
この論点については、かなり専門性を帯びているためか、難解だという印象を受けました。どうやら「タイプ論的(類型的)」という言葉の意味を、私がつかみあぐねていることに原因があるようです。理解がいまひとつ及ばないことを自覚しつつも、私が考えたことをまとめてみました。
まず、エリクソンにおいては、年齢という単純な基準に則って発達課題が存在するということが漠然と想定されているという印象を受けましたし、そういう意味においては、彼はその発達課題を素朴に分類したのであり、発達段階といっても、構造という複雑な機能のようなものが、その段階の奥に見透かされているのではない、というふうに解釈しました。
それに対して、キーガンの発達理論においては、加藤さんのおっしゃるように、「意味を付与する機能そのものがより複雑になっていく」のであり、その構造としての機能を見透かしつつ分析の対象としており、その機能が発達段階を垂直的かつ重層的に現象させていることを明らかにしたという点において、エリクソンの心理学とは一線を画しているのだと解釈しました。
また、マズローの欲求階層説は、その欲求を現象させているところのものが、構造と呼ぶにふさわしいような階層性を持つ機能であることから、キーガンの立場に近いというふうに理解しました。以上のような相違点を考え合わせるなら、エリクソンはさほど構造主義的ではないのかもしれない、という印象を持ちました。
すこし視点を変えると、エリクソンはもっぱら現象を記述することを意図したのに対し、キーガンは現象を現象させる機能を記述することを意図した、というイメージですが、私の解釈が正しいかどうかは、やはり自信がありません。
それから、主体の問題という観点から眺めてみると、エリクソンの心理学では、ちょっとコミカルですが、主人公のキャラクターである「主体」が「発達ワールド」(画面上に展開されるので二次元的です)で、葛藤を繰り広げつつ発達課題という様々な「イベント」を「クリアし」ながら冒険する、というイメージが頭をよぎります。
対するキーガンの発達理論では、主体はかなり希薄化し、前景に躍り出た構造もしくは機能なるものが、(主体性は幻想に近いものだったという意味で)主体とも呼べないような個体をときには捕えたり、またときには吐き出したりしながら、折り重なってうごめいているというイメージです。
【私の応答】
的確にまとめていただき、大変ありがたいです。まさに、エリクソンは構造的な機能を見透かしておきながらも、それを明示的にモデル化することはせず、発達課題を素朴に分類していったと考えられます。一方、マズローは欲求を生み出す機能に階層構造を見出したという点において、マズローの欲求段階モデルはエリクソンの段階モデルと異なり、キーガンの意識発達モデルと近いです。
ご指摘いただいて私もハッとしたのですが、エリクソンは発達課題として生起する現象を忠実に記述していったのに対し、キーガンは現象を生み出す機能そのものを記述した、という違いがありますね。
ご提示いただいた、エリクソンとキーガンの発達理論に関するイメージは大変興味深いです。エリクソンの心理学は、まさに主体が次々と発達課題を乗り越えていく冒険のようなイメージですね。
多くの方は、エリクソンが描く冒険の中で現れるステージ(発達段階)を単に八つの分類に過ぎないとみなしがちなのですが、各段階には発達課題を克服するための二つの道——発達課題を健全に克服する道と不健全に通過する道——が存在し、その後、どんどん枝分かれ的に冒険のプロセス(発達プロセス)が続いていきます。
要するに、65歳あたりで最終的な段階に到達するまでに、私たちは「2の7乗通り=128通り」の道を歩んでいることになります。そう考えると、エリクソンのモデルは素朴なタイプ論的でありながらも、意外と複雑ですよね。
キーガンの発達理論に話題を移すと、キーガンは「意識の発達とは主体の縮小過程かつ客体の拡大過程である」と述べています。この考え方からすると、主体は「濃密な状態から希薄な状態へ」、客体は「希薄な状態から濃密な状態へ」という運動を行っていく、という思想をキーガンは持っていたように思います。
しかし、ここで問題となるのは、主体が縮小する(希薄な状態へ移行する)という意味なのですが、私はここに「自己の本質( “魂”、 “内在神”、あるいは “仏性” と表現されるようなもの)」を見出しています。
つまり、主体が縮小していくというのは、自己が消滅するプロセスを描いているのではなく、自己を自己たらしめている凝縮体に帰還する、という意味として捉えています。もしかしたら、キーガンが提唱した発達段階の階梯を登っていくと、プロティノスが提唱した「一者」のような、自己を自己たらしめているものを含め、現象世界の全てを現出させる完全なるものと同一化する境地へ至るのかなと思っています。
以前、プロティノスについて調べていると、プロティノスは中世キリスト教に多大な影響を与えた、という記述があったのを覚えています。前々から気になっていたのですが、キリスト教において、自己意識に関する発達思想のようなものはありますでしょうか?
仏教においては、「自己」に関する精密な発達段階モデルが存在しており、仏典の理解と実践に励んだ先に「悟り」という境地に到達できると考えられています。人間の意識の発達という観点から見た時に、キリスト教にはどのような発達思想——「発達段階モデル」と記載することに躊躇しました——があり、信仰を深めた結果としてどのような状態に至ると想定されているのか、ぜひ教えていただければ幸いです。
【質問者の方からの応答】
エリクソン、マズローおよびキーガンの理論に対する私の理解も、そこそこ的を射ていると考えてよさそうですね。またひとつ発達理論に対する理解を深められたように思います。ありがとうございます。
「意識の発達とは主体の縮小過程かつ客体の拡大過程である」というのは、含蓄に富んだ表現であるように思われました。そして、加藤さんのおっしゃるように、その過程が極限まで推し進められていったときに人間の存在や認識はどうなるのか、という問題意識に行き着くのは、ごく自然なことだと思います。
これはもう確かめられるものならば、自身の体験でもって確かめてみるしかないのかもしれませんね。宗教伝統や神秘主義的哲学と発達理論を何らかの形で架橋するという課題も、まだ着手されて間もないようですし、ぜひ加藤さんにこの方面も切り拓いていただきたいです。
ところで、こういった発達過程の極致という問題意識も、加藤さんの著作にひっそりとしたためられているように感じられました。それは最後の室積さんと山口課長の乾杯の場面ですが、あの場面は、大胆にも著作の内容を自ら脱構築していらっしゃるようにも思われ、「前衛的なビジネス書だなあ」と心の中でつぶやいてしまいました。
「キリスト教における自己意識に関する発達思想」ですか……、これはかなり手ごわい質問ですね。ご質問の内容との関連性がパッと思い浮かぶところでは、オリゲネス、十字架のヨハネやアビラのテレサ、イグナチオ・デ・ロヨラ、ヤコブ・ベーメ、ニコラウス・クザーヌス、マイスター・エックハルト、イヴリン・アンダーヒルなどが挙げられます。
しかしながら、現代に生きるわれわれから見れば、いずれも信仰という個別領域における発達を主題として扱っているのであって、自己そのものの発達という観点が存在するかどうかは、疑問が残ります。とはいえ、彼ら彼女らにあっては、信仰こそが自己における主要な部分と目されていたことは確かだと思いますので、結果として信仰の発達と自己の発達はかなり重なり合う部分もあるのではないかとも思われます。
有名なところでは、キルケゴールは「美的実存→倫理的実存→宗教的実存」という擬似的な発達段階モデルを提唱したということもできるかもしれません。もっとも、科学的手法には基づいていない擬似的なモデルですので、真の要素は少なく、かなり善美に傾斜した思想ではあるとは思いますが。
【私の応答】
激励のお言葉をいただいたので、神秘主義哲学と発達理論の架橋という大きな仕事にも今後着手していきたいと思います。プラトンやプロティナスを始め、神秘主義哲学の射程は広く、牛歩のような探究速度になるかもしれませんが、その点に関して継続的に探究を行っていきたいという心積りでおります。
室積さんと山口課長の最後の乾杯シーン(pp.237-238)に言及してくださり、どうもありがとうございます。実は著者として、あのシーンを一番大切にしています。ある種、形而上学的・神秘主義的な記述をしていますが、そこで描かれている世界認識は、まさに私の世界認識が色濃く映し出されたものだと感じております。
もし、著作の内容を踏襲する形で締めくくるならば、「一年間のコーチングを終えたことに対する乾杯」「自分や部下が成長できたことに対する乾杯」「会社が変革しつつあることに対する乾杯」だったと思うのです。
ですが私は、著作の内容は全てリアルでありながら、虚構の産物であるという明確な認識のもと、記述内容全てを脱構築したかったのです。そうすることによって、私たちが生きることは、成長・発達を追い求めること以上の意味を持つものであり、それよりもずっと神秘的かつ奇跡的なことであるということを伝えたかったのです。
そして何より、私たちの固有の自己は、それを超えたより大きな存在によって抱擁されており、誕生することも消滅することもなく綿々と躍動し続けるものである、というある種の私の死生観を是が非でも伝えたいという想いがありました。いや、より正確には、死生観を伝えたいというような作為的な意図が介入する間隙も無く、その文章を紡ぎ出していた自分がその場にいたのです。
「キリスト教における自己意識に関する発達思想」に関して、様々な人物の名前を教えてくださり、どうもありがとうございます。特に、イグナチオ・デ・ロヨラやマイスター・エックハルトは、前々から気になっていた人物なので、彼らを中心に探究を進めていきたいと思います。
発達理論の探究を進めていくうちに、ライプニッツの哲学を理解することが不可欠であるというところに行き着いていたのですが、ニコラウス・クザーヌスを調べてみると、ライプニッツに多大な影響を与えているそうですね。これを知って、ニコラウス・クザーヌスの業績についても調査をしたいという思いがより一層強くなりました。ご紹介いただきどうもありがとうございます。
【質問者の方からの応答】
加藤さんの著作には、加藤さんなりの熱情が秘められていたことを知って、感動いたしました。どうも私は文章から熱が伝わって来る著作なり思想家なりを好むようなのです。新約聖書学者である大貫隆先生の『イエスという経験』を筆頭とする著作群や、パウル・ティリッヒの『生きる勇気』なども行間から滲み出る熱情を感じ取れる名著です。
大貫隆先生は一橋大学社会学部卒ですから、加藤さんの先輩にあたりますね。民間企業に数年間勤めた後、「キリスト教だなんて、棺桶に半分足を突っ込むようなところに、なぜ!?」という周囲の反対を押し切ってキリスト教の世界に飛び込んだ、というエピソードをご自身の著書で紹介されていました。『真理は「ガラクタ」の中に』に収録されている「なることはとどまること」というお話は、私のキリスト教理解といちばん近いと思っています。
パウル・ティリッヒについては“The Courage to Be”(『生きる勇気』)が代表作で、内容も充実していると思います。発達理論の観点から、自己肯定の源泉(≒生きる勇気)の変遷(「全体の部分として生きる勇気」「個人として生きる勇気」「この二つの勇気を超越し包含する絶対的な勇気」)を読み解くことも可能でしょうし、実際私もそういう読み方をしました。
神秘主義哲学と人間の意識との架橋という仕事は、非常に刺激的ですね。このトピックに関連して、私が哲学の解説書等を読んでいつも疑問に思うことは、後代に生きる「哲学学者」たちが果たして研究対象としている哲学者(とその認識能力)を本当に理解しているのだろうか、ということです。
例として『精神現象学』を取り上げると、ヘーゲルのいう「絶対精神」を形而上学にすぎないとして斥ける哲学学者は、ヘーゲルが認識しえた世界を認識していないのではないか、ということです。
ヘーゲルが持っていた「色眼鏡」を哲学学者のほうが持っておらず、ヘーゲルが獲得した認識の深み(高み)に達していないのだとしたら、それこそ頭上に展開する世界を自らが認識しえないからという理由で虚偽であると断じていることになり、非常に残念な態度であるといわざるをえません。
何が言いたいのかといえば、ヘーゲルの獲得した認識も、やはり「意識段階X」として存在しており、その段階においては絶対精神が認識可能となるのではないか、そして、それは実は新たなる意識段階であって、かならずしも古色蒼然とした神話的意識形態というわけではないのではないか、ということです。
絶対精神のような形而上学的概念とされてきたものや、神秘主義的な意識を発達理論から説き明かすという仕事はまことに意義深く、混迷を深める現代の思想状況に大いなる示唆を与えることになるのではないでしょうか(かなり長期的な視点ですが)。
「語りえないものについては沈黙すべきである」ということと、「語りえないものを否定する」という態度とでは、仮に結果としての態度は同じであっても、その内実はずいぶん違っているように思われます。「語りえないものはほんとうに語りえないのか」。そういった問題も、加藤さんのお仕事の一つになるのかもしれない、などと考えたりもします。
【私の応答】
大貫先生のご経歴を拝見させていただいたところ、一橋の先輩にあたるようですね。民間企業からキリスト教の世界に移られた大貫先生の軌跡と自分の軌跡を勝手ながら重ね合わせている自分がいました。「なることはとどまること」というのは、発達理論の観点から見ても大変示唆に富んだ言葉だと思いますので、『真理は「ガラクタ」の中に』をぜひ読んでみたいと思います。
「哲学学者」の論点について、私も同様のことを思っています。自らの哲学体系を打ち出すことをせず(打ち出すことができず)、偉大な哲学者の業績を解釈することにとどまる「哲学学者」の人たちは、往々にして、その哲学者の真髄を理解するに足るだけの認識能力を持ち得ていないのではないかと思わされることが多々あります。
これは研究者としての自分自身にも多分に当てはまりますが、探究において主観性や属人的要素を完全に排除することなどできないため——むしろ、研究や探究において、その人の色や独自性が前面に出ているからこそ、その研究や探究の内在的な価値が担保されると考えていますが——、探究主体の認識レベルは探求活動を大きく規定すると思っています。一言で述べると、探究主体の認識レベルと研究の質は直結しているということです。
それを踏まえると、哲学学者がヘーゲルの認識レベルに到達していない場合、ヘーゲルが真に言わんとしていたことを掴むことは到底できないと思われます。そうなると、ご指摘のように、哲学学者は偉大な哲学者の業績を曲解し、その真髄を自分の認識レベルまで引き下げることになってしまうと思います。
そのため、本来であれば発達段階5を凌駕する認識レベルに基づいて構築されているヘーゲルの哲学は、哲学学者の認識レベルに応じて、「段階3的なヘーゲル哲学」や「段4的なヘーゲル哲学」等、劣化した形で世の中に蔓延しているように見受けられます。
今後、長期的な展望を持って、その道のりがいかに険しかろうとも、形而上学的な概念群を発達理論から説き明かすという仕事や語りえないものに対して果敢に切り込んでいくような仕事も進めていきたいと思っております。