発達理論の学習者は、意識の高度化を過度に擁護しようとする発想に必ずどこかで陥る。これまで長らく発達理論と付き合ってきた経験上、意識の発達に関する探求を継続させていくためには、意識の高度化に何らかの意義を見出すことは確かに必要であると理解できる。
しかし、意識の高度化が不可避に内包する負の側面に着目しないというのは、相当浅薄な探求だと思う。意識の発達と深く付き合うためには、意識の高度化が持つ光の側面だけではなく、どうしても闇の側面を直視する必要があるのだ。
ロバート・キーガンやビル・トーバートの著作がここ数年において翻訳出版されているのを見ると、日本において、成人期における構造的な発達心理学の思想は黎明期にあると感じている。こうした時代背景の最中、構造的な成人発達理論が今後どのように日本に普及していくのかは、非常に重要な問題だと思う。
構造的な成人発達理論を導入するにあたって、まず焦点を当てなければいけないのは、意識の高度化が持つ負の側面だろう。意識が高度になるということがどれだけの危険性を内包しているかというのは、物理学における「位置エネルギー(potential energy)」という概念を援用すればイメージが付きやすいだろう。
皆さんの右手の手のひらを上にかざし、手のひらから3mm程度の高さから、ハガキと同じ大きさのレンガを落としてみることを想像してみてもらいたい。その破壊力(痛み)はどれほどのものだろうか?想像するに、3mm上からレンガを落としたところで対して痛みはないだろう。
それでは、スカイツリーの頂上から皆さんの右手の手のひらめがけてレンガを落としたらどうだろうか?間違いなく、手のひらはぐちゃぐちゃになり、大きな痛みを伴うだろう。それでは、この背後にはどんな原理があるのだろうか。
背後にある原理は簡単であり、物体は高い位置にあるほど位置エネルギーを増すというものだ。そして、この原理は、意識の発達にもほぼ同じように作用する。
つまり、意識が高度になればなるほど、「心的位置エネルギー(mental potential energy)」が増加し、途轍もない破壊力を持つということだ。発達理論と哲学思想に関して、私のメンターを務めてくれていたザカリー・スタインがたびたび口にしていたが、「ダースベーダー・ムーブメント」は常に起こりうるものなのだ。
要するに、高度な意識段階を獲得することによって醸成された心的位置エネルギーは、社会を望ましい方向に変革するために使われるとは限らず、社会を没落と破壊に導くために行使される危険性があるのである。
端的な例は、第二次世界大戦中において、我が国が被った悲劇だろう。この戦争で日本は、原爆投下という惨事に見舞われた。そもそも原爆という具体的な物体の根源には、アインシュタインが提唱した極度に高度な物理方程式「E=mc^2」があったのである。
アインシュタインという、物理学の領域において高度な知性を獲得した者によって発見された方程式は、それが極めて高度なものであったがゆえに、歪曲された形でそれが用いられると、私たちの生存を脅かす惨事に直結するのだ。
そもそも意識が高度になったところで、私たちの心の闇が消えることはなく、むしろ闇の力もより強靭なものになるため、今後日本において構造的な成人発達理論が普及する中で、意識の高度化を手放しに称賛する動きに対して私たちは抗う必要があるだろう。