私が直接的に師事をしていた発達心理学者のオットー・ラスキーの言葉が最近妙に思い出されます。ここ2年間は、セオ・ドーソンやカート・フィッシャーの理論モデルや測定手法に習熟するための期間であり、ラスキーの理論や測定手法から少し距離を置いていました。
ところが、ここ最近、ラスキーが当時述べていた話の中で、今の私の関心事項に関係してくる話題が多々あったことに気付かされます。ラスキーは、これまでの記事で述べてきたように、フランクフルト学派で哲学を修め、その後、ハーバード大学にてロバート・キーガンとマイケル・バサチーズの功績を哲学的に再考することを始めました。
当時の私は、キーガンとバサチーズの理論的枠組みを哲学的に捉え直すというラスキーの試みに対して、あまりその内容を理解していなかったように思うのです。今、改めて考えてみると、どの発達理論の大家も固有の発達思想を持っています。
すなわち、発達論者によって、「発達」という言葉の意味するものが異なり、対象とする発達領域も実に様々であるということです。それに加えて、ピアジェ派のように、発達を静的な構造的進化とみなすのか、新ピアジェ派のように、発達を動的な構造的進化とみなすのかという大きな思想上の差異も存在します。
ラスキーが行っていたことは、キーガンとバサチーズがどのように発達現象を捉えているのか?という問いに対して、哲学というレンズを通して答えようとしていたのです。
そこでラスキーが最初に取った手段は、哲学者ハンナ・アレントが古代西洋哲学において「真実」と「意味」は常に区別されるものであったと指摘したように、「真実」と「意味」を明確に区分することでした。
アレントは「真実構築活動」と「意味構築活動」を区別しましたが、彼女はどちらの活動も人間の心によって行われるということを否定しませんでした。彼女が指摘したのは、両方の活動を混合し、両者の関係を明確にしないことは哲学的な誤謬であるということでした。
こうした意味においてアレントは、ホリスティックかつ弁証法的な思考を行っていたと言えます。ラスキー曰く、キーガンはアレントの「真実構築活動」を認めず、人間は絶えず意味を構築する生き物であるという「意味構築活動」を強調しているのは周知の事実です。
そして、ラスキーは、人間の意識という一つの共通基盤の中で生じる、互いに相異なる「真実」と「意味」はどのように関連し合っているのかということを考えるに至りました。
“Measuring Hidden Dimensions of Human Systems"を執筆している最中、ラスキーは両者の間に存在する一つの明確な関連性は、「内省的判断力の発達」であると思うようになったと述懐していました。確かに、ラスキーは、内省的判断力の発達を研究していたパトリシア・キングとカレン・キッチナーの理論モデルを援用し、キーガンとバサチーズのモデルを架橋しようとしていたのだと今になって気付かされました。
内省的判断力の発達とは、不確実なものに対処しようとする人間の心の生涯を通じた変化を表します。キングとキッチナーは、内省的判断力の発達に関して、子供が不確実性を理解するのに苦しむということ、あるいは周りにいる「誰か(母親、教師、牧師など)」が「真実を知っている」と考えることによって不確実性に対処しようとすることを指摘しました。
つまり、内省的判断力は不確実性の最中においても、それに麻痺することなく、真実を探求し、独自の意味を構築する能力だということです。ラスキーはキーガンとバサチーズの理論が対象とする領域を区別した上で、両者を再び繋ぐ架け橋として内省的判断力を採用したのでした。