現在、未読の書物を紐解くことと並行して、既読の書物や学術論文を読み返すことを行っています。改めて、再読の価値とは、初読当時の自分では気づかなかった重要事項を発見し、それを立ち止まって考えさせてくれることにあるなと思います。
カート・フィッシャーとチェン・ヤンが執筆した “The Development of Dynamic Skill Theory”を読み返しながら、高度な認知レベルを体現している者は、無駄のない思考運動の体得者であると形容することができると気付かされました。
彼らの研究で一つ興味深いのが、「認知レベルの高い熟練者は、あるタスクに直面すると最初は低いスキルレベルを発揮するが、すぐにタスクレベルに適応し、それに合わせたスキルレベルを発揮することができる。一方、非熟練者は、あるタスクに直面すると、極度に変動性の激しいスキルレベルを発揮し、安定したパフォーマンスを発揮するのに多大な時間を要する」という発見事項です。
ここから連想されるのは、ある領域において認知レベルが高度な熟練者は思考運動において、無駄な動きがないということです。それはまるで、波をうまく乗りこなすサーファーのように、要求されるタスクレベルの波を適切に掴み、その波を乗りこなすのに必要な最低限の認知力を発揮しているかのようです。
それに対して、ある領域において認知レベルが高くない素人は波乗りが巧みではなく、無駄な思考運動をせざるを得ず、乱高下の激しい認知力を発揮してしまうという事態に陥ります。
確かに武道の達人などを見ていても、相手と対峙した時に自分が潜在的に持つ能力を全て発揮しているかというとそうではなく、相手をいなす程度の能力しか発揮していないように思えるのです。つまり、武道の達人は、身体的に無駄のない動作を行っているだけではなく、認知的にも無駄のない能力を発揮していると言えるのではないでしょうか。
一方、私自身の合気道のトレーニングを思い出すと、熟練者の方や師匠から頻繁に「身体が強張っている」「無駄な力を入れすぎている」という指摘を受けてきました。つまり、武道の初心者は、身体に無駄な力が入り、身体動作が円滑ではないのです。
武道のように身体動作が主たる要素だと思われる活動も、実際のところは認知能力が密接に関わっており、合気道という文脈の中に置ける私は、身体運動と認知運動(思考運動)ともに無駄な力が入り、そこで発揮される力というのは非常にばらつきがあるなと考えさせられました。
言うまでもありませんが、こうした事態は何も武道に限らず、組織社会で働く人すべてに当てはまることだと言えるでしょう。認知が関与しない仕事というのはほとんど存在しないと思うので、一度ご自身の仕事を振り返り、自分がどのような身体運動を行っているか、つまり、どんなスキルレベルを発揮しているかを内省してみると何かしらの気づきや発見事項があるかもしれません。