現在でも何かあるたびにやり取りをしているのですが、JFK大学院時代にお世話になっていたオットー・ラスキー先生が執筆した論文や書籍を少しずつ読み直しています。私はラスキーの測定手法から距離を置いているというのが現状ですが、人間の意識に関する彼の理論モデルから今でも多くのことを学ばされます。
ドイツの哲学者かつ社会学者のテオドール・アドルノやマックス・ホルクハイマーといったフランクフルト学派を代表する人物からラスキーは手ほどきを受けていたことが影響してか、現存する発達心理学者の中ではあまり見られないような角度から人間の意識の成長・発達を捉えています。
私が二年半にわたって直接師事をしていたオットー・ラスキーの発達思想を少しずつ紹介していきたいと思います。ラスキーはフランクフルト大学で哲学に関する博士号を取得し、特にヘーゲル哲学を探求していたと聞いています。
その影響もあり、ラスキーの認知的発達理論では「弁証法思考(dialectical thinking)」を重要な概念として捉えています。端的に述べると、弁証法的思考は、おおよそ20代半ばの成人(帰属する文化によって年齢は前後する)がピアジェで言うところの形式論理思考を十分に習得して初めて使えるようになる高次の思考方法です。
ラスキーが指摘しているように、弁証法思考は形式論理思考と強く結びついた科学技術文明(特に西洋文化)によってその芽が開花するのを妨げられています。ラスキーはよく私に東洋における弁証法思考の特徴と現状を尋ねていましたが、東洋、特に日本においても弁証法思考の発芽は妨げられているという状況に変わりはないと思います。
つまり、日本において形式論理思考の鍛錬がそもそも不十分であるために、弁証法思考という高次の思考形態が育まれようもない状況にあると見ています。弁証法思考という高度な思考形態を養うことを阻害している日本の教育事情よりも(この論点の方が重要だと思いますが)、今回の記事では簡単に弁証法思考の輪郭を明らかにしておきたいと思います。
弁証法思考とは形式論理思考の完成後に誕生する高度な思考形態です。しかし、弁証法思考は論理的思考に取って代わるものではなく、論理的思考に依存する形で機能します。
ヘーゲルが述べたように、弁証法思考は、究極的なまでに自己批判的な態度を保ち、自己の存在すらも疑い、概念が自己及び他者の心の中でどのように構築されるかを見極める思考法と言えるかもしれません。
世間一般的に言われている弁証法思考は、ヘーゲルが述べた弁証法のごく一部を切り取り、「命題と反命題があり、それを統合するような思考法」としか認知されていないような気がします。ラスキーが指摘するように、弁証法思考は「二つの概念を同時に頭に描き、それを統合する」以上のものです。
弁証法思考は互いに相異なる二つの概念を捉えることであり、あるいは二つの概念を排除することであり、そして思考をより前進させるために、サルトルが述べた「否定性(negativity)」を活用する思考法であると言えます。要するに、思考する者の頭の中にある否定性を認識することによって、動的な思考運動を生み出すことができるのです。
この定義に基づくと、「人間は必ず死ぬ。そしてソクラテスは人間である。それ故にソクラテスは必ず死ぬ」という有名な哲学的推論はそうした動的な思考運動に基づいていないと言えます。同じ説明内容を単に異なる方法で述べることは単なるトートロジーにすぎません。
科学主義的世界を含めたこの現実世界は上記に述べたようなトートロジーで満ち溢れていますが、それらは弁証法思考の誤用であり誤謬なのです。