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135. 映画「バケモノの子」を鑑賞して:発達理論の観点より


偉大な芸術は、あなたを、あなたの意志に反して、つかむ。そして、あなたの意志なるものを宙づりにする。あなたは、欲望、渇望、自我、自己収縮などから解放された、静かな深い森の中に開かれた小さなオープン・スペースに招き入れられる。この意識の中の静かなオープン・スペースを通して、高次の真実、微細な啓示、深い結合の光が射してくる。一瞬の間、あなたは永遠なるものに触れる」ケン・ウィルバー『統合心理学への道』より

昨日、傑出した映画作品を鑑賞しました。細田守さんが創出した「バケモノの子」というアニメーション映画です。師弟関係・親子関係・教育・学習・人間としての成長に関心のある全ての方に映画館に足を運んでいただき、一度見ていただきたい作品です。

冒頭で紹介したウィルバーの引用文にあるように、私はこの作品に間違いなく掴まれ、私の中の全てのものが宙づりにされ、白日のもとに晒され、それら全てからの解放と意識の変容が同時に生起するという不思議な体験に包まれました。

ロサンゼルス在住時代、当時のルームメイトから細田さんの前作「おおかみこどもの雨と雪」を推薦されて見たところ、私が通っていた大学と4年間過ごした街が映画の舞台として描かれていた点、主人公「花」と私の母がやけに重なって見えたという点において、作品の魅力に引き込まれた感がありました。

今回の作品でも自分の人生と重ね合わせてしまう点が多く、途轍もない愛情と剥き出しの内なる闇と攻撃性をぶつけて自分を育ててくれた父との親子関係、人間の意識の発達に関する思想上の闘争をさせてくれたオットー・ラスキー先生、喧嘩別れをしたセオ・ドーソン先生との師弟関係の記憶が鮮明に蘇ってきました。

この作品の装いは間違いなく、人間の子と一匹のバケモノが生み出す成長ストーリーです。ただし、この作品を見た人であれば、この作品にはそれ以上のものが内包されていることに気づくでしょう。

以下、人間の意識や心の成長・発達を専門とする私の個人的な鑑賞録を列記させていただきます。主人公の「九太(きゅうた)」の師匠「熊徹(くまてつ)」の言葉「意味なんかてめぇで見つけるんだよ!」というセリフにあるように、私がこの作品を通じて見つけた意味を記述していきます。

「師弟関係」に対する再考

この作品を通じて描かれている大事なテーマの一つとして「師弟関係」が挙げられます。作品中、実に様々な形の師弟関係が描かれていることに気づきます。皆さんはこれまでどのような師弟関係を経験し、現在どのような師弟関係を結んでいるでしょうか? 最初に取り上げるべきは、バケモノである熊徹と主人公の九太が結んだ師弟関係でしょう。映画「セッション」でも見られた荒くれ者の師匠とその弟子という構図を思い起こさせるような師弟関係です。修行の最中、常に九太と熊徹はぶつかり合い、九太は師匠である熊徹を乗り越えていこうとします。

熊徹は九太という弟子に対して、心底深い愛情を持ちながらも、不器用かつ高圧的な剣術指導を徹頭徹尾行っていきます。熊徹は、一つの技術に対して稚拙な言語化しかできず、あまりにも感覚的な指導しかできません。

一見すると、熊徹は現代の教育論的な観点から言うと指導者として失格の烙印を押されるでしょうし、正当な学習理論や発達理論の観点から見ても、正しい指導者とは言えないかもしれません。 しかし、私はこれはある意味で傑出した人間を育てる正しい指導のあり方を映しているとも思います。

正直なところ、これまでの記事で紹介してきたカート・フィッシャーの「発達範囲」を考慮した教育手法やレフ・ヴィゴツキーの「最近接発達領域」に基づいた教育手法などを活用すれば、優秀な人間を育てることはできても、傑出した人間を育てることはできないのではないかという疑問を最近持っています。

指導者として才能を見抜く眼がない場合、そして弟子の闇や攻撃性を触発し、それと対峙できない力量の指導者の場合、フィッシャーやヴィゴツキーが提唱するような指導方法を採用するのが望ましいでしょう。

しかし、熊徹はそのような指導を九太に施しませんでした。熊徹は後からやって来た他の弟子たちに見込みがないことを本質的に見抜き、九太だけが突出した何かを持っていると直感的に察知したのでしょう。

結局のところ、弟子の中に潜む闇や攻撃性を触発し、それと対峙し、受け止められないような指導者は傑出した人間を育てることはできないでしょうし、自分の中の闇と攻撃性を総動員して師匠に対峙できない人間も傑出した存在になることはできないのではないかと思わされました。

一方、人間界における九太の師匠は楓(かえで)という女子高生でしょう。9歳からバケモノの住む世界で過ごしていた九太は、読み書きがおぼつかなく、楓から教えを受けることになります。

「あんなに楽しそうに学んでいる人を見たことがない」という楓のセリフから読み取れるように、読み書きを覚えた九太は自分の関心事項を嬉々として自ら探求していきます。旧態依然とした現代教育システムのもとに育った楓と自らの内発的な探求意欲に突き動かされて学びを深めていく九太との対比は大変興味深かったです。

学習に関して、楓という良き指導者がいたからこそ九太は学ぶきっかけを得たのだと思いますが、人間が何かを学ぶというのは本来、こういう姿勢でこういう形で進んで行くものなのではないかと思わされました。

内なる闇と心の穴:闇との対峙と健全な闇の再所有

この作品では、人間誰しもが持つ闇を基本的に肯定して描いているため、救われた思いになった人は私だけではないでしょう。作品の中で内なる闇は「心の穴」として描かれています。それはまさに、フロイトやユングが言うところの「心のシャドー」でしょう。

「一郎彦」というバケモノ界に紛れ込んだもう一人の人間は、自分の闇に飲み込まれ、自らのシャドーを九太に投影していきます。一郎彦は自分のシャドーに気づかず、それを投影していることに最後まで気づきませんでしたが、九太は「一郎彦の問題は、俺の問題でもあるから」と述べており、自分の影を認識し、それと対峙する道を選択しました。

影との対峙を決意してから始まる物語のラストシーンには、多くの大切なものが凝縮されていると感じました。

九太が天性のものとして兼ね備えていた相手の特性を読む眼(生得的発達)と剣に姿を転生させた熊徹が九太の胸に宿ることによって開花した熊徹から継承された剣術(経験論的発達と輪廻転生)が組み合わされ、九太が鞘から剣を引き抜く原動力となったのは、九太を支えてきた全ての人やバケモノ達との関係性の中で育まれたエネルギー(縁起的な因果連鎖と関係性)でした。

そして、切り裂いたものは、一郎彦の闇でもありかつ自分の中の闇でした。切り裂いたというよりも、厳密には健全な闇を「再所有」したと表現した方がいいかもしれません(参考「ジョンエフケネディ大学留学記」p.87-92)。

まとめ

この作品を見ることによって、ここでは書き足りないぐらいの論点に気付かされました。ラストシーン終了後、Mr.Childrenの「Starting Over」が終わるまで、正直なところ身動きができませんでした。皆さんはどんな「胸の中の剣」を持っていますか?

【追記:その他の論点に関する備忘録】

ある芸術作品が世に出された瞬間に、その解釈と評価は私たち鑑賞者側に委ねられます。作品に何を感じ、何を見出すかは、鑑賞者の意識の発達段階とこれまでの知識や経験などと強い相関関係があります。

以下、上記で取り上げることのできなかった論点について備忘録を兼ねて列挙しておきます。

・前作「おおかみこどもの雨と雪」では、主人公は夫を亡くしており、本作品では主人公にとっての母親が亡くなっているという設定です。さらに、本作品では主人公にとって唯一無二の存在である熊徹が物理的にこの世から存在しなくなるというのもある種の喪失です。人間の成長を語る上で、「喪失感」というのは極めて欠かせない要素なので、この辺りについてまた何か書ければと。

・育てる者と育てられる者との境界線の消滅

・プラトン、アリストテレス、プロティナスから連綿と受け継がれる神秘哲学思想 ・誰しも経験する「ズレ」がもたらす成長:自分の中でのズレ、環境とのズレ、文化とのズレ、時代とのズレ ・孤独であることの意義と他者の存在 ・バケモノの世界と変わらぬ人間の世界(バケモノが潜む日常世界、人間が持つバケモノを凌駕する魔力や破壊力など) ・胸の中の剣としての父・師匠:師匠の喪失と胸の中で生き続けるもの

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