発達理論という一つの科学分野が経験してきた、パラダイムの転換に伴う苦難に目を向けてみると、パラダイムの変革が起こったというよりも、現在はその過渡期にあると述べた方が適切でかもしれません。
カート・フィッシャーが指摘するように、発達理論が果たすべき主要な役割は、人間の発達現象が持つ動的な側面と可変性を明らかにすることであり、現代の発達理論家の幾人かが、可変性という概念を見直し、再構築している様子を見ると、パラダイムが劇的に転換したとは言いがたい状況にあります。
それを証明する事実として、発達理論の分野において、未だにデカルト的発達思想が支配的であり、その思想の影響下、発達思想の微小な修正が繰り返されているだけであるという現象が見られます。
つまり、発達の可変性に関して、徐々に現代の発達理論家の中で人口に膾炙するようになってきており、発達が持つ動的な側面が受け入れられ始めているのですが、動的な要素を受け入れるだけで適切な説明がなかったり、デカルト的発想が支配的である既存の理論を強化するために、発達の可変性という概念が乱用されている傾向があります。
現在、様々な発達理論家が発達の可変性について言及する状況にあり、そうした理論家のうち、誰がデカルト的な思考の枠組みに基づいて可変性という概念を用いているのか、また誰が可変性という概念を十分に説明し、デカルト的な思考のパラダイムを超えて発達現象を捉えようとしているのかを見極めていくことが求められています。
こうした状況を鑑みると、今の発達理論というフィールドにおいて、既存のパラダイムと新たなパラダイムの闘争、もしくは衝突が起こっている気さえします。人間の心の発達において、さらに高度な段階に発達するためには、既存の段階の「死」を経験する必要があるとされています。
発達にある種の死が不可欠であるのと同様に、新たなパラダイムの誕生には、既存のパラダイムの死が必要なのだと感じています。こうしたパラダイムの過渡期に身を置いてみると、発達理論のフィールドにおいて実に動的なうねりが生じているのがわかります。 質問・コメント・記事の共有をご自由にしていただければ幸いです。