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28. 具体的な文脈を想定した鍛錬の継続:高度な知識とスキルの獲得へ向けて


これまでの記事から明らかなように、さらに高度な知識やスキルを獲得するプロセスは、容易なものではありません。往々にして学習者は、さらに高度な知識やスキルを獲得するプロセスにおいて、突然の技術の向上や伸び悩みを経験します。あるいは、知識とスキルの後退現象を経験するかもしれません。

しかし、これらは一喜一憂するような現象でありません。全ての学習プロセスにおいて、こうした伸び悩みや後退という現象は、普遍的なものなのです。あるいは、知識やスキルの伸び悩みや退行現象は、学習において不可避な現象と述べてもいいでしょう。

それでは、どのようにすれば、伸び悩みや退行現象の先に待つ高度な段階に辿り着くことができるのでしょうか?カート・フィッシャーは、強固な知識とスキルを獲得するには、実際の文脈に根ざした具体的な活動に繰り返し従事する必要があると指摘しています。知識やスキルというものが本来的に文脈に根ざされたものであり、具体的な活動を通じて発動するものであるという特徴を考慮すると、これは妥当性のある指摘です。

ご存知の通り、知識やスキルの獲得において、繰り返し鍛錬する重要性はこれまで頻繁に提唱されていました。マルコム・グラッドウェルが指摘した「1万時間の法則」においても確かに継続的な鍛錬の重要性が説かれています。

しかし、そこで欠けている議論は、どれほど実際の文脈を想定して鍛錬を継続させるかという点です。私たちのスキルは、文脈特定的であるという点を考慮すると、具体的な文脈を無視した実践活動にどれだけ従事したとしても、さらに高度なスキルを獲得することはできません。

昔、元サッカー日本代表の中田英寿選手が、日本代表がおこなうパス回しの練習は、世界でも指折りのレベルであると述べていました。さらに中田氏は、日本代表がそうした技術レベルを持っていながらも、実際の試合で活かしきれていないということを指摘していました。

中田氏の発言は、日本代表は「練習という文脈」におけるパスのスキルレベルは世界有数であるが、実際に相手と対峙する「試合という文脈」におけるパスのスキルレベルは低いことを明らかにしています。つまり、具体的な文脈を蔑ろにしたトレーニングをいくら積んだとしても、実際の試合でそのスキルが発揮されることはありません。

巷では、「プレゼンテーションスキル」「会話術」「戦略思考能力」「意思決定能力」「英語力」など、様々なスキルを向上させることを目的にした書籍が無数にはびこっています。果たしてそこでは、どれほど具体的な文脈を想定した鍛錬の重要性が説かれているでしょうか?

私自身の学習歴・トレーニング歴を辿ってみると、具体的な文脈を想定したトレーニングが欠如していたことに気づかされます。確かに紆余曲折し、無駄なトレーニングを積み重ねたことによる恩恵も存在すると思います。しかしながら、自分の生存や存在意義が関わる領域において、具体的な文脈から遊離した鍛錬を継続することは、能力や時間という限りある資源を浪費していることを意味しているのではないでしょうか。

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