日本ではヴィゴツキーという心理学者の教育・学習理論は比較的広く知られています。しかし、その後継者であるピョートル・ガルペリンの理論はほとんど知られていないのが現状ではないでしょうか?そのため、ガルペリンが残した功績を少し紹介したいと思います。
まずヴィゴツキーは、学習を認知的・社会的・感情的発達への道として認識していました。また「学習とは発達ではない。しかし、適切に設計された学習は発達を生み、様々な発達過程の中に発達の種を植えることにつながる」(ヴィゴツキー, 1978, “Mind in Society: The development of higher psychological processes,” p.90)と述べているように、人間の発達を内在的な力に頼るのではなく、適切に設計された学習によって支援をおこなうべきものであると捉えています。
さらにヴィゴツキーの発達思想で看過することのできない点は、発達は「社会・文化的」なものであり、人間の心は社会との絶え間ない相互作用の結果として発達するということです。
ヴィゴツキーのこれらの考え方を踏襲し、ヴィゴツキーの理論的枠組みをさらに拡張させたのがピョートル・ガルペリンという心理学者です。ガルペリンが提唱したのは、学習者に事物や現象の本質部分を教えることは認知的発達を促進させることにつながるということです。
こうした考え方が生まれた背景には、伝統的(慣習的)な学習プログラムは学習者に断片的な知識を供給することに留まり、認知的発達にほとんど寄与しないというガルペリンの批判がありました。ガルペリンにとって、学習とはヴィゴツキーが強調していたように、社会や文化に根ざされたものであり、現実世界の具体的な実践活動と密接に関わるものと捉えていました。
そのため、伝統的な教育システムが提供する断片的な知識や社会・文化と切り離された知識というのは、人間の心がそもそも社会・文化的なものである以上、心の発達を促すものにはならないと強く述べています(実際には、そうした教育のあり方を害悪ですらあると指摘しています)。
ガルペリンの具体的な教育プログラムはユニークであり、算数・数学、物理、言語、歴史など多岐にわたる科目に彼の学習理論が適用されています。例えば、子供に「数字」を教える際には、「数」という概念がそもそも社会・文化的な文脈の中でどのように生まれてきたのかをまず説明します。
数の起源という社会・文化的な視点を提供した後に、現実世界の(毎日の)活動に準拠した状況において数がどのように用いられているのかを説明していきます。具体的には、実際に物を使って数を計算したり、測定したりするという活動を子供たちにさせることによって、単なる「物」が測定可能な「量」に変化するという考え方を教えることにつながります。
また言語教育においても同様のアプローチを採用しています。例えば、第二言語を教える際に、動詞の活用などの文法事項を断片的に暗記させるのではなく、動詞の活用が暗に示す機能や規則性をまず教えることが挙げられます。
その動詞が具体的に活用される文脈において、どのようにその動詞が機能し、語形変化の規則性を示すことによって、学習者は言語が持つ「暗黙的な規則性」を発見し始めます。ガルペリンの教育プログラムは示唆に富むので、さらなる調査をおこなった後にみなさんの発達支援や学習支援に応用させてみるのはいかがでしょうか? 質問・コメント・記事の共有をご自由にしていただければ幸いです。
【追記】 余談ですが、ガルペリンの論文を読んでみると、彼も発達の多段階モデルを提唱しています。ガルペリンは子供を主に研究対象としており、子供の認知的発達において3つの段階を提起しています:(1)身体的・物理的段階、(2)発話段階、(3)内的言語段階。 【頂いたコメント・質問】 C:ご紹介ありがとうございます。ちょうど、山本義隆の『十六世紀文化革命』という本を読み始めたところなのですが、相通じるところがあるように思いました(山本氏は駿台予備学校の名物講師で、聞くところによると、物理の諸法則や数学的な概念について、「そもそもそれは本質的には何なのか?」を理解させるのに巧みな先生でいらっしゃるようです。エピソードを色々伺うと、期せずして、そういうガルペリン的なアプローチを取っておられるというか)。
また、知り合いの元・小学校の校長先生に伺いますと、最近の小学校の算数・理科教育でもこういうアプローチが試みられているようにも思います。ただ、先生によってばらつきがあるようですので、理論を意識的に活用することによって、さらに実りある、興味深い学習・教育ができるといいですね。