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成人発達理論とインテグラル理論を楽しく学んでいただける「成人発達コラボラジオ」を2023年7月14日より始めました。
タイトル一覧
11359. 今朝方の夢
11360. 哲学者バーナード·カストラップの仕事に出会って
11361. 学ぶ力とサイケデリクス
11362. 人間とドラッグ/予測不可能性への開かれ
11363. ルールとゲームに関する現代人の病
11364. 意識のハードプロブレムに取り組みながら
11365. バーナード·カストラップの言葉から考える意識のハードプロブレム
11366. 意識のハードプロブレムに「超越論理的言語」を適用することの重要性
11367. サイケデリクスの扉の向こう/時間と空間の存在意義
11368. ジムでのハードなトレーニングを終えて
11369. 対話の持つ力/サイケデリクスに関する構造の改革と土壌の開拓
11359. 今朝方の夢
時刻は間も無く午前4時を迎える。今朝方も午前3時半に起床し、1日の良いスタートを切ることができた。午後9時半を目処に就寝すれば、今の自分の生体リズムとして午前3時半に目覚めるようになっていることがわかったのは収穫である。心身の求めに応じて睡眠を取るというのが自分の考え方なので、3時半に目覚めてすっきりしていればそのまま1日の活動を始めるということをこれからも心がけていきたい。
今朝方は起床前に1つ印象に残る夢を見ていた。その夢から目覚めた瞬間に伸びと共に両足をピンとまっすぐに伸ばしたところ、左足の脹脛をつってしまった。それは「つる」という現象なのか不明だが、筋肉が伸びたままの状態になって痛さを感じるという現象である。これは朝目覚めた時に伸びと共にかつても時折起きていた現象で、治し方を知っているので速やかに直して起床したという出来事があった。
今朝方は夢の中で、日本の大学時代に知り合ったドイツ人の友人と駅で話をしていた。彼は母親が日本人で、父親がドイツ人のハーフだが、ドイツ語が母国語だった。それでも日本語も本当に流暢で、日本での留学生活は全く困っていない様子だった。しかし、新幹線の停車駅については知識がなかったようなので、その話をしていた。彼は東京を出発して名古屋で降りたいらしく、それであれば「名古屋行き」と表示されていなくても、「大阪行き」と表示されたものでも途中で名古屋に止まると伝えた。それを聞いて最初彼は少し半信半疑の表情を浮かべたが、日本の地理を説明したところ納得してくれた。彼の手には期間中であれば何度でも新幹線に乗れるチケットがあって、それを見ると、どういうわけか「先物」と赤字で書かれていた。金融の先物取引でもして入手したのかと思わず笑みがこぼれそうになったが、笑みを押さえて彼を見送った。
自分も別の新幹線に乗ったところ、その列車は前部と後部が新幹線の車両で、途中は普通車両に分かれているという変わった形式を取っていた。私は最初後部の新幹線の車両に行って、席を確保しようとした。するとそこで電話がかかって来て、電話を受けると、電話の主は小中高時代の親友(SI)だった。突然彼が、「名古屋に止まらずに広島まで来てしまった」と述べた。先ほど話をしていたのはドイツ人の友人だったはずでおかしいなと思ったが、どうやら親友の彼も名古屋に行こうとしていたらしく、名古屋を乗り過ごして広島まで来てしまったそうだった。彼の話を聞いて、速やかに名古屋まで引き返して来る方法を伝えたところ、彼は嬉しそうな声を浮かべてお礼を述べて電話を切った。
そこから私は車両を移動しようと思った。後部ではなく前部の新幹線車両に座りたかったのだ。途中の普通車両を横切って行こうとすると、時刻はちょうど夕方の満員電車の時間帯で、あまりの混み具合に普通車両を通り抜けていくことができなかった。これは弱ったなと思っていたときに、一度プラットホームに降りて走って前部の車両に行こうかとも思ったが、そのときに列車が出発してしまうと嫌だなと思ったので後部の車両で我慢することにした。すると、後部の車両に座っている乗客たちが軒並み咳きをし始めた。どうやら風邪が流行っているのか、得体の知れないウィルスが蔓延しているのかで、乗客の大半が咳き込むような状態だった。あまり気持ちの良い状況ではなかったが、席に腰掛け、静かに出発を待った。
列車が無事に出発すると、私の左横には前職時代の女性社員の先輩がいて驚いた。彼女の方を見ると、彼女は食事中で、大量のツナが入ったサンドイッチを食べていた。そのサンドイッチの作りは奇妙で、パン生地とツナが分離していて、ツナが下の方に固まっていて、上の方には野菜などの別の具材が固まっていた。彼女は静かに黙々とサンドイッチを頬張っていたので、私は話しかけることをせずしばらく黙っていた。すると自分たちが座っている席が透視されるという奇妙な現象が起きた。なんと驚いたことに、私たちの席の下には水槽があって、そこに大量のブルーギルがいたのである。ブルーギルは席に座っている人がこぼした食べ物を狙ってウヨウヨしていた。ちょうど彼女がサンドイッチを食べ終えたようだったので、透視で見えた足下の世界の話をすると、彼女は驚いて気持ち悪がっていた。ブルーギルが落ちた食べ物に集まって、その食べ物があっという間に食い散らかされていく様子を知覚したところで目が覚めた。フローニンゲン:2023/11/20(月)04:11
11360. 哲学者バーナード·カストラップの仕事に出会って
時刻は午前4時を迎えたが、ここから日の出までは4時間ほどある。この4時間を暗闇と共に過ごしていこう。そこには静寂さもあって、闇と静けさの双方が自分を包みながら朝の探究活動に従事できるのは嬉しいことである。
今の気温は12度と比較的高いが、目覚めたときには雨が降っていた。今は雨音が聞こえてこないが、今日も1日を通して雨が降る時間帯が多いようだ。午前中に少し強めの雨が降り、午後からは小雨に変わるとのことなので、ジムに行く際には支障はないだろう。さて今日のジムでのパーソナルトレーニングではどのようなことを学ぶだろうか。毎回のパーソナルトレーニングは学びの宝庫であり、それはパーソナルトレーニング限らず全てのことに当てはまる。こうして毎日を学びと共に過ごしていると、自分の存在が学びの権化であることが強く実感される。今日もその瞬間瞬間の学びを大切にし、学びとして呼吸をして生きていこうと思う。
昨日、サイケデリック哲学に関するポッドキャストを聞いていると、そこでオランダ在住のブラジル生まれのオランダ人哲学者バーナード·カストラップという人物が話をしていた。意識に関する彼の話が大変興味深く、彼の書籍を購入してみることにした。最初彼の英語を聞いたとき、ドイツ人だと思っていたが、後ほど調べてみると、リオデジャネイロ生まれのオランダ人だと知って驚いた。これまでオランダ人の哲学者の仕事を参照することはあまりなかったので、文化的な思考の枠組み等を含めて、彼の仕事に着目してみることにした。結構な数の書籍を既に出版しているようだったが、彼の意識論に惹かれるものがあったので、全ての出版物を購入しようと思った。しかし一夜明けて少し考え直してみたところ、サイケデリクスに関する知識もまだまだ身につけていきたいところなので、サイケデリクスを直接的に扱った書籍も旺盛に再読したいという思いがあり、彼の書籍から厳選したものをまず購入してみることにした。それで言うと、カストラップが述べるショーペンハウアーの形而上学思想とユングの形而上学思想が面白いと思い、それらはサイケデリクスを通じてリアリティとは何かという問いについて考える際に非常に役に立つと思った。少なくともまずはそれら2冊の書籍を購入してみたいと思う。
カストラップは心の哲学とAIの双方に造詣が深いなと思っていたところ、存在論と心の哲学に関する博士号と、人工知能に関するコンピューターサイエンスの博士号の2つを取得していることがわかった。後者の学位を通じてCERNでの仕事をする傍に、哲学関係の書籍をたくさん執筆しているようである。また、30代から十分なサイケデリック体験を積んでいることもインタビューからわかり、尚更彼の思想を深く知ってみたいという興味が湧いた。いずれにせよ、彼の仕事を参照することは、サイケデリクスを通じた心の哲学探究に有益であるという確信が芽生え、特に意識のハードプロブレムに関して光を与えてくれるような洞察を彼の書籍から得られると思った。そのため今夜に時間を取って、13冊ほど出版されている彼の書籍のうちの何を購入するのかを吟味し、早速いくつかの書籍を読み進めていきたいと思った。先日に書籍を注文したばかりだが、研究トピックとして新しいものが生まれてくるごとに必要な書籍が生まれ、良書に出会えることは大きな知的喜びをもたらす。フローニンゲン:2023/11/20(月)04:33
11361. 学ぶ力とサイケデリクス
人はいつから学ぶ存在を喪失してしまったのだろうか。現代人の学ぶ力の低下は著しく、多くの人たちは大いなる学びの世界に自己が投げ出されていることに気付いていないし、微細な現象から学びを汲み取ることはおろか、重要な出来事からも学びが汲み取れなくなってしまっている。学ぶ存在としての弱体化は目に余るものがある。そのような状況でサイケデリクスが社会に普及して何が変わるのだろうか。変わる人も中にはいるだろう。しかし大多数が学ぶ存在としての自己を喪失してしまっている状況の中で、サイケデリクスという大いなる学びを与えてくれる存在にアクセスできるようになったからといって、現代人が大きく変わっていくとは思えない。人間は常に過ちを犯す存在であり、今回のサイケデリック·ルネサンスは一定の成果を上げるだろうが、多くの人がサイケデリクスに関して様々な過ちを犯すだろう。そうした過ちから私たちは学んでいく必要がある。学ぶ存在であることを放棄してならず、逞しく学んでいくという力と在り方を復権させ、そうした力と在り方を養っていく必要がある。
サイケデリクスという大いなる学びの提供者は至ってシンプルだ。それは植物の形をしているかもしれないし、キノコの形をしているかもしれない。はたまた、タブレットやカプセルの形をしているかもしれないし、液体の形かもしれない。いずれにせ、サイケデリクスという大いなる学びの提供者はシンプルなのだ。その他にも大いなる学びの提供者がいる。そこに深い変容の可能性を秘めていて、超越的なリアリティにアクセスできる存在をその他にも挙げてみると、座禅と性交がある。座禅。それは至ってシンプルで、座るだけだ。性交。それもまた至ってシンプルで、男女(あるいは男男·女女)が交わるだけである。しかし、それらのシンプルな実践がどれほど私たちを遠くに連れて行ってくれるかを知る人は少ない。座禅も性交も大いなる学びの提供者であり、それを通じて私たちは三昧も涅槃も味わえるし、悟りの体験をすることもできるのだ。こうした大いなる学びの提供者をことごとく私たちは見過ごしているし、それらに接する態度を見てみると、それらの実践を冒涜しているとさえ言えるような状況ではないだろうか。特に性交に関しては悲惨な状況で、パートナーという大いなる学びの提供者と性交という大いなる学びの提供者の双方に対する敬意が多くの場合に欠落している。
結局人は学ぶことが苦手な存在なのかもしれない。学ぶことに弱さを抱えた存在なのかもしれない。その認識から出発することは重要かもしれない。人は学ぶことが得意ではなく、学ぶことに関する様々な弱さを抱えている。それは認識上の盲点のみならず、自我への囚われや過去のトラウマなど様々なものに起因する。いずれにせよ、人々が学ぶ力を獲得していかない限りは、サイケデリクスもまた性交のように、大いなる学びの機会を与えてくれる存在に対する敬意を欠いた形での利用に留まることを危惧している。人はどうすれば真の意味で学ぶ存在になるのか。そのテーマについても考えを深めていき、自分なりの実践の処方箋を提示できるようにならなければならない。フローニンゲン:2023/11/20(月)05:40
11362. 人間とドラッグ/予測不可能性への開かれ
私たちの存在そのものとドラッグと一般的に呼ばれる薬との間には何が違いがあるのだろうか。ここで述べている薬には、薬局で売られている風邪薬のようなものからサイケデリクス 、さらにはハードドラッグも含まれる。ありとあらゆる薬が良薬と毒薬の両側面を持っている。それはまるで陰陽の関係のようだ。それでは私たち人間存在はどうだろうか。ボディの次元においては男女の区別があり、それは陰陽の関係性にも思えるし、交感神経と副交感神経の関係もまた陰陽の関係に思える。マインドの次元においても、良い考えや悪い考えと呼ばれるようなものがある。これもまた陰陽の関係として捉えることができるだろう。そうなってくると、陰陽の関係という観点で言えば人間存在とドラッグは瓜二つのように思えてくる。高度数千メートルの高さから地上の人間と地面に落ちている薬の双方が同じく1つの点として知覚され、両者の区別がつかないかのように、両者は陰陽の関係性において同じ存在に思えてくるのだ。それだけではない。そもそもドラッグはどのような働きかけをするかというと、私たちの内側にある物質を増幅させたり、減退させたりする。あるいは内側にある物質と全く同じか瓜二つの物質を身体に送り込む形で何らかの作用を生じさせる。ドラッグの中で、人間の身体に全くない物質をを持つドラッグがどれだけ存在するのかは薬理学の知識に乏しいのでわからないが、少なくとも全てのドラッグは身体にある何かしらの物質の一部は持っているはずであり、完全に異物で構成されているドラッグなどないのではないかと思える。そうなってくると、これもまた高度数千メートルとまではいかなくとも、巨視的に眺めてみると、ドラッグは人間の身体にある物質の増減を行っている存在にすぎず、逆に言えば、人間の内側にはそのドラッグが存在しているともみなすことができるので、人間はドラッグ的存在と言えるのではないだろうか。逆に言えば、ドラッグは人間的存在なのである。そのようなことを考えていた。
そこから、サイケデリクスがもたらす予測可能性と予測不可能性について考えていた。自分がなぜ合成系ではなく、できるだけ自然の形のままの天然系のサイケデリクスを好むのかと考えてみたときに、自分は予測可能性をあまり好まず、それは適度にしておいて、予測不可能性に絶えず大きく開かれておきたいのだという性向を持っていることに気付いた。自分の日々の取り組みにおいても、人生そのものに対しても自分は予測不可能性を好む。それで言えば、サイケデリクスは確かに合成系·天然系を問わず、その人の心身の状態や環境の状態によって体験が千変万化する。開示されるものも1つとして同じものはない。それは私たち自身が、そしてリアリティ自身が絶えず変化しているからでもあり、その変化に呼応する形でサイケデリクスは常に新たな体験と体験世界そのものを開示する。最初からサイケデリクスにはそうした予測不可能性が内包されているが、合成系はやはり安定度合いが高く、天然系はそれが育った環境という変数と、それもまた命ある生き物であるという変数からより予測不可能性が高い。実験室で分離された合成系のシロシビンと、シロシビン以外の物質も多分に含まれた天然系のシロシビン·マッシュルームでは、両者の予測可能性は大きく異なる。とりわけ後者の場合には、それに含まれる多様な物質が相互作用して特殊な効果をもたらしうるというアントラージュ効果がある。こうした効果を享受する形で何が開示されるかわからない楽しみを得たいという考えを自分は持っているようだ。それはまるでおみくじを引くかのような確率論的世界への投げ出されも意味し、自分は絶えず大いなる偶然と必然を感じたいのだろう。そうした思想を持っているがゆえに、今後もできるだけ予測不可能性に満ちたシロシビン·マッシュルームという生命と命の交流·交感を通じて無限の学びを汲み取りたいと思う。フローニンゲン:2023/11/20(月)06:08
11363. ルールとゲームに関する現代人の病
現代人はあまりにもゲームに関する感性が鈍感だと言えるのではないだろうか。モーニングコーヒーを淹れながらそのようなことを思った。人は種々のゲームをソーシャルリアリティの中で行っている。ここでいうゲームというのはテレビゲームでもスマホゲームでもなく、社会の中での営み全てを指す。それは等しくゲームなのである。ゲームには共通して存在しているかというと、ルールというものがある。それは明示的なものかもしれないし、暗黙的なものかもしれない。しかしルールのないゲームなど存在しない。ルールがないゲームは、ゲームとして成立せず、単なるカオスである。実際のところは、複雑性科学の研究成果が示すように、カオスの中にさえ規則性というルールがあるのだ。そうなってくると、尚更ゲームの中にも必ずやルールが存在することが見えてくる。
現代人がゲームに対してどれだけ鈍感か。それはひょっとすると、ゲームそのものへの気づきに加えて、ルールに対して鈍感だと言えるかもしれない。あるいは、ルールに関しては過剰反応を引き起こす性質を病理的に持っていると言えるかもしれない。それは病理である。ゲームそのもの、ゲーム全体を客体化する知性がない人もルールには気付けることがある。しかしルールに気付けたとしても、本来解放をもたらすはずの気づきの意識ではなく、ルールに縛られ、抑圧され、何も声を上げないという形でルールに従う人が多い。しかしながら、ひとたびルール違反の人を見ると、その人への人格批判を含めたおよそ倫理的とは思えない人道にもとる攻撃を過剰に加える人が現代社会に増えてきているように思える。
例えば、自分はこの秋まで日本では栽培が違法なカンナビス(大麻)を1株キッチンの植木鉢で育てていた。それはもう収穫してしまい、夕食の野菜炒めの中に入れて食したたが、カンナビスを育てるということに関して日本人の多くはどう思うだろうか。また今現在は、日本ではかつては違法ではなかったシロシビン·マッシュルーム(当時の名称で言えばマジック·マッシュルーム)の栽培キットを購入して、目下愛情を注ぎながら育てている最中だ。これもまた日本では違法な存在である。しかしオランダでは、カンナビスの栽培にせよ、シロシビン·マッシュルームにせよ、自らの手で育て、それを私的利用することは合法である(私的利用というのは自分で消費することで、他人に販売することは規制されている)。端的には日本とオランダは、それらの物質に関して異なるルールで営まれている異なるゲームがあるのだ。それにもかかわらず、多くの日本人はそのことに気づくことができない形で、ひょっとしたらルールに従った形でそれらのものを海外で育てている日本人を攻撃するかもしれない。これはかなり馬鹿げた話で、どれだけ馬鹿げているかというと、自分からすれば、手を使うことがルールとして許されていないサッカーと、逆に足を使うことが許されていないバスケを混同するぐらいおかしなことだと思う。例えばオランダ以外のカンナビスの私的利用を目的として自家栽培することが認められている国でカンナビスを育ている人を、日本にいる日本人が日本ではそれが違法だからという理由で批判したり、攻撃したりするというのは、手を使っていいバスケをしている人に対して、サッカーのルールに頭が縛られた状態で、手を使っていることを批判するぐらいに愚かなことに見える。繰り返しになるが、両者の間には異なるルールに則った異なるゲームが存在しているのである。上述の例は些細なものにすぎないが、結局のところ現代人の大多数がルールへの過剰反応とゲームの理解に欠けているという事例は枚挙に遑がない。現代人の生きづらの要因の1つは、自分が従事するゲームへの盲目的信奉とそのゲームへの過剰適応から生じる精神病的な思考·行動特性にあるように思える。そうした状態から脱却するためにも、ゲームとルールへの感性を磨くことをしていかなければならないのではないだろうか。また、上述のような問題を指摘する人がもっと社会に現れることも重要になるだろう。自分はたった1人でも声を上げ続ける。見たものは見たのであり、感じたものは感じたのであるから。フローニンゲン:2023/11/20(月)06:29
11364. 意識のハードプロブレムに取り組みながら
起床してから3時間が経過したが、辺りは全くもって闇に包まれたままだ。午前8時の日の出を迎えるまで、あと1時間半ほどある。そんな中で昨日に引き続き、意識のハードプロブレムについて自身のサイケデリック体験を振り返りながら考えていた。そもそも意識のハードプロブレムでは、主観的な意識がなぜどのように立ち現れるのか、という問いと向き合う。しかしその問いに向き合う前に、問いの前提条件や問いの枠組みを見つめ直してみるということから出発することを昨日提案していた。主観的な意識というものが立ち現れるとか立ち現れないとか、そうしたバイナリーの性質を意識は持っていないのではないかと思ったのである。意識は常に今ここにあり続けているという前提で出発してみてはどうかと思って考えを進めていた。ここから心の哲学に関するオックスフォード大学出版とルートリッジ出版から出版されている分厚い網羅的な論文集を読み込んでいきたいと思うが、現在の無知な状態で言えば、心の哲学者が探究しようとしているところの意識というのは、どうも発達理論で言うところの意識状態のそれのように思えてくる。もちろん中には意識状態をメタ的に捉えて意識そのものについて扱っている人もいるが、立ち現れる·立ち現れないという問いに疑いを持たないというのは意識そのものと意識状態の混同があるからではないかとふと思った。もちろん、哲学にも科学におけるパラダイムの縛りのような現象が絶えず存在していると思えるので、現代の心の哲学者たちは自らのパラダイムに気付いていないのかもしれない。
そのようなことを考えながら、メタファーを用いながら引き続き意識のハードプロブレムについて考えていた。そこでふと思いついたのがテレビのメタファーである。テレビというのは物質であり、そうした物質的なものをメタファーに用いることそのものが意識を物質的なものに還元しようとしているという批判を受けそうだが、わかりやすい説明をする上で物質的なものをメタファーに活用するというのは避けて通れないように思える。その他にもっと良いメタファーがないかを探してみたいが、まずはテレビのメタファーで言うと、ある部屋に一台のテレビが置かれていたとする。テレビにはリモコンがあり、それを操作すれば様々なチャンネルが見られる。この様々なチャンネルが多様な意識状態であり、それは確かにリモコンの操作で入れ替わる。ひょっとしたらここでいうリモコンが脳の存在と比喩的に言えるかもしれない。脳は意識状態の切り替え、ないしは立ち現れと消滅を担当するが、脳がテレビ番組という意識状態を生み出しているわけではない。テレビ番組はその制作者がいて、リモコンとしての脳はあくまでもそれを受信し、それをテレビ画面に映し出す役割しか担っていない。つまり意識状態そのものは脳と別に存在していて、脳は多種多様な意識状態のうちの1つをまるで1つのテレビ番組をテレビの画面に映し出すリモコンの役割しか担っていないと言えるのではないかと考えた。そこから、意識がどのように立ち現れるのかという問いが幾分ナンセンスに響くのは、テレビは最初からその部屋に存在しているからである。意識そのものがリアリティであり、リアリティは意識そのものであると仮定すると、リアリティは常に存在しているのであって、それが立ち現れるとか立ち現れないとか考えることが自体が方向違いのように思えてくる。もちろんここで置いている自分の仮定をさらに検証し、議論を詰めていかなければならないが、おおむねそのようなことを考えていた。
テレビのメタファーにおいて発達理論で言うところの意識状態がテレビのチャンネルなのであれば、意識構造は何に当たるかと言うと、テレビのグレードと表現できるだろうか。アナログテレビからデジタルテレビへの移行、昔の機能に乏しいテレビからスマートテレビへの移行など、機能的な質的変化が意識構造の変化と喩えられるかもしれない。テレビそのものが性質的にアップグレードされたら(意識構造が変わったら)、同じ番組でも画面の解像度が上がること(同じ意識状態における同じ現象に対しても知覚されるものの解像度が上がること)などは、意識構造と意識状態の関係をうまく捉えているように思う。フローニンゲン:2023/11/20(月)07:03
11365. バーナード·カストラップの言葉から考える意識のハードプロブレム
起床してから3時間半が経とうとしているが、いつものように朝の呼吸法やアニマルフローを行い、デジタル絵画の創作と作曲実践という朝のルーティン的実践を全て行いながらも、まだ朝の読書を開始していない。ずっと日記を書き続けている。前回のシロシビン·セッションから10日が経ったが、まだシロシビンの脳の可塑性増幅効果は続いているようで、言葉が内側から溢れ出てくる状態が続く。通常の意識状態なのだが、シロシビンの効能が持続しているので、「特殊な通常意識」と呼べるような状態の中にいるのかもしれない。
興味深いことに、先ほど意識のハードプロブレムに対してテレビのメタファーを用いて随分とスッキリ説明ができたように思えたが、日記を書き留めた直後にまた疑問が出てきた。昨日知ったオランダ人の哲学者バーナード·カストラップの言葉を借りれば、「マインドは脳の中にはなく、脳がマインドの中にあるのだ」という言葉には深く共感しており、その考え方を採用すると、あのテレビのメタファーは少し修正が必要かもしれない。はたまたその逆に、カストラップの言葉を変えなければならないのか。少なくともカストラップのこの言葉をそっくりそのままテレビのメタファーに当てはめようとするとおかしなことが起こる。テレビのメタファーの中で自分は、テレビそのものを意識、すなわちマインドに見立て、脳はマインドと別の存在としてリモコンに見立てていた。カストラップの言葉を文字通りに採用してしまうと、テレビはリモコンの中にはないというのはその通りだが、リモコンはテレビの中にあるというのは少し奇妙だ。テレビセットの一式の中にリモコンがあると言うのであればわかるが。メタファーを修正しようと思った矢先に、カストラップの言葉そのものを少し検証してみることにした。カストラップの心の哲学思想が何主義に該当するのかをきちんと把握しなければならないが、マインドは脳の中にはないというのは、「ベルグソン·ハクスリー理論(脳の減量バルブ説)」からしても確かにそのように思うが、果たして脳はマインドの中にあるのだろうかと思ったのである。これは物質的な脳と質的なマインドの混同なのではないかと思ったのである。端的には、左象限を右象限に折りたたむという意味でのフラットランド化ではなく、逆のベクトルの、すなわち右象限を左象限に折りたたむ形でのフラットランド化なのではないかと思ったのである。インテグラル理論の4象限の考え方を採用すれば、マインドと脳は最初から存在論的に居場所が違うのである。居場所が違うはずのものを片方の中に収めようとするのは認識的誤謬なのではないだろうか。左象限のマインドは右象限の脳の中にはないというはまさにその通りだが、右象限の脳が左象限のマインドの中にあるというのはおかしい。自分のメタファーの見直しも必要な部分があるだろうが、それよりも先にカストラップの言葉の検証が先で良かったのである。いずれにせよ、こうした考えのきっかを与えてくれる現代の心の哲学者の研究や洞察はつぶさに追っていこう。この分野に関しても、300冊超のサイケデリクス関係の学術書を購入したとの同じく、心の哲学に関する一般書ではなく、生粋かつ最新の学術書を購入することは惜しまず行い、それに加えて論文も旺盛に読んでいこうと思う。また、晴れてHDSに入学することができたら、哲学科の授業として心の哲学に関するものも受講したい。心の哲学とサイケデリクスを掛け合わせた研究に従事することに無上の喜びと面白さを感じる。フローニンゲン:2023/11/20(月)07:18
11366. 意識のハードプロブレムに「超越論理的言語」を適用することの重要性
シトシトとした雨が天から降り注ぐ中、午前7時半を迎えたところでようやく空がダークブルーに変わってきた。日の出まであと30分ほどである。日の出を迎えるまでのこれまでの時間は書きに書くということをまるで呼吸をするかのように自然なこととして行っていた。自分にとって自らの言葉を綴るという行為は、呼吸をするのと全く同じ自然な行為なのである。そのようになったのだ。
意識のハードプロブレムに関する問題を考えながら、昨日も哲学者たちが活用している哲学言語そのものへ着目していたように思う。端的にはやはり彼らが活用する言語体系は論理的言語に留まるのである。逆に言えば、そのルールに則って言語ゲームをし、哲学的仕事というゲームに従事していると言えるかもしれない。しかし果たして論理的な言語で意識の所在や生成メカニズムを説明できるのだろうかと疑問に思っている。そもそも意識は論理的な存在なのだろうか?そのような問いから出発してみてはどうだろうか。そもそも意識とは言語超越的な存在なのではないだろうか。そうだとしたら、論理的言語だけを持ってして意識の謎に迫ろうとするのは最初から無理な話なのである。もちろん、論理的な言語で語れる側面を意識は有しているだろう。それについてはウィトゲンシュタインが述べるように、語れるところまで語ればいい。しかし、語れないものに関してはウィトゲンシュタイン的に沈黙するのではなく、むしろそこからは言語体系を変えればいいのではない思う。端的には、論理的言語ではなく「超越論理的言語(trans-logic)」を活用するのである。発達理論について学んだことがあれば、この発想には何の違和感も持たないだろう。むしろ哲学者たちがそれに気づかずにいることが意識のハードプロブレムと同じぐらいに謎であるが、早朝の日記で書き留めていたように、哲学者であったとしても現代人一般と同じく、自らのゲームとそのルールについてあまり自覚的ではなく、ルールとゲームがいかなる言語で記述されているのかに対しての認識は薄いのだろう。いずれにせよ、そもそも意識には論理的に語れる部分と超越論理的な側面があるのであるから、両方の言語体系を駆使することがやはり懸命に思えてくる。超越論理的な言語の代表格は神秘主義の言語体系であり、さらには詩的言語も挙げられる。神秘主義思想と詩的言語の思考方法が意識のハードプロブレムに必ずや新たな光をもたらすであろうという確信のもと、自らの超越論理体系をさらに育み、超越的な言語の使用について鍛錬·習熟していかなけれならない。その鍛錬·習熟の一環として、サイケデリクスの摂取とその振り返りがあり、とりわけ高度な哲学思想と神秘主義思想に関する絶え間ない学術研究がある。意識はそもそも言語超越的な存在であるという前提を置く形で、その前提から日々の学びと実践を組み立てていき、意識とは何か、それはなぜどのように立ち現れるのかというハードプロブレムに取り組み続けたい。フローニンゲン:2023/11/20(月)07:43
11367. サイケデリクスの扉の向こう/時間と空間の存在意義
サイケデリクスというのはあくまでも媒介者であり、自己や世界への扉なのであって、確かにその扉について学ぶことにも意味はあり、今後もそれを継続していきたいが、扉の先について何を知りたいのかを明確にし、それについて知るための学問領域を明確にしていかなければならない。自分の場合は、まずはサイケデリクスの扉の先にある「意識とは何か」「リアリティとは何か?」という問いに答えることを最優先にしたく、そのためには心の哲学や神秘主義、そして形而上学や認識論、さらには存在論などを学んでいく必要がある。社会実践上においては、サイケデリクスの扉の向こうにある法規制について最大の関心を払って探究と実践に乗り出していこうと思う。
昨夜、なぜ人間は時間と空間の概念を生み出したのかについて考えていた。なぜ宇宙はそのような概念を人間に授けたのだろうか。そんな問いが立った。それに対して、それは差異化のため、多様性の実現のためなのではないかと思った。仮に時間と空間がなかったらこの世界はどうなるだろうか。きっとそこでは全ての存在が1つに折り畳まれてしまい、多様性が確保されないと思ったのである。宇宙は常に可能性に開かれていて、多様性を生み出す方向に運動を続けている。そのような性質を考えてみたときに、宇宙が人間に、あるいはこの世界に時間と空間の概念を与えたのは、多様な存在者を生かすためだったのではないかと思ったのだ。時間と空間があるおかげで私たちは1つに折り畳まれずに存在することができる。しかしながら時間も空間も概念であることを考えると、宇宙はさらにその先を人間に用意しているかのようだ。固有性を体現し、多様性へ開かれた後に時間と空間の外側に出てみると、今度は驚くことにやはり全ての存在と1つになれるのである。これはよくサイケデリック体験のピーク時に体験することである。時間と空間を超えてみれば、そこでは全ての存在者が一者として存在しているのだ。非二元というのはそういうことであり、アートマンとブラフマンの一致とはそういうことであり、一者として生きるというのはそういうことなのだろう。
バーナード·カストラップの「マインドは脳の中にはない、脳がマインドの中にあるのだ」という言葉を受けて、そこにリアリティを絡めて考えていた。リアリティもまたマインドの中にはないのだろう。マインドがリアリティの中にあるのだ。あるいは、自分のマインドは自分のリアリティであり、絶対的リアリティは自分のマインドを超えていると述べた方が正確だろう。マインドは脳を超えていて、究極的リアリティはマインドを超えている。そのような関係性が三者(個別のリアリティと究極的リアリティを区別すれば四者)の間にありそうだ。
古典的サイケデリクスが脳の一部の活性化を抑えることによって自我を溶解させ、マインドが拡張する現象と、それを通じて大きなリアリティに開かれて、リアリティを触知する感覚が増すことが興味深い。この現象からも、脳、マインド、リアリティの関係とそれぞれの性質を考えていくことができるかと思う。色々と気づきや発見、そして新たな考察が尽きない。フローニンゲン:2023/11/20(月)09:23
11368. ジムでのハードなトレーニングを終えて
時刻は午後5時を迎えた。今朝方も3時半に起床し、そこからこの時間帯に至るまで非常に充実した時間を過ごしていた。学術研究としての読書だけではなく、それに付随する形で日記の執筆やリサーチノートの執筆も着実に進み、協働プロジェクトに関するミーティングも今日はあった。また、先ほどまではジムに行ってパーソナルトレーニングを受けていた。日々様々な学習や実践に従事しながら、溢れる充実感の中で毎日を過ごすことができていることに感謝したい。
今日は早朝や午前中こそ雨が降っていたが、ジムに行く際には雨が止んでいたし、ジムから帰ってくる時には美しい夕焼けを見た。うっすらと赤紫に色付いた夕焼け空はとても美しかった。帰り道しばしそれを眺め、その美しさに感嘆の声を漏らしていた。
さて今日のジムでのパーソナルトレーニングであるが、前回同様になかなかにチャレンジングであった。トレーナーのエリーザは私の好奇心と身体の柔軟性や可動性を知っているので、色々と毎回実験的なエクササイズが導入される。今日もいくつか新しいメニューがあり、色々と意見を出し合って今の自分にふさわしいエクササイズを模索していった。まさにトレーナーとクライアントが協働してトレーニングメニューを作っていく楽しさが毎回ある。前回、ちょうど新しく到着したマシーンを使って腹筋のトレーニングをし、そのエクササイズ中こそそれほど辛さは感じなかったが、その翌日から数日間とんでもない筋肉痛に襲われた。それは筋破壊が起こったことを表しているので肯定的な現象だが、それにしてもかなりの筋肉痛で、朝に行うヨガのコブラのポーズが難しいほどであった。今日ジムに到着した時に受付にいたエリーザに声をかけると、エリーザも前回のトレーニングの後に自分に提供した腹筋のトレーニングをやってみたところ、腹筋が崩壊して数日間筋肉痛になっていたとのことだった。あのトレーニングは今後も様子を見ながら取り入れていこうということになった。
今日のトレーニングはこちらからの要望もあり、前面の筋肉群よりも後面の筋肉群に焦点を当てた形でトレーニングを行っていった。60分間のパーソナルトレーニングの最中に、今日はその他のスタッフが受付におらず、エリーザは自分のトレーニングと受付業務の双方を掛け持ちしなければならず、時々自分から離れる瞬間があり、その時間を埋めるために10分ほどさらに延長でトレーニングに付き合ってくれた。そこからのトレーニングは心拍数を上げるようなメニューをこなした。最近は週に2回のジムぐらいしか外出しないようにし、ジムの帰りに買い物を全て済ませるようにしており、これまではジムの翌日に散歩がてら中央市場に行っていたので、それがアクティブレストとなり、心肺機能にも程よい刺激を入れていたように思う。なのでここからは特にジムの翌日の朝と午後にはバーピーのようなエクササイズを朝のアニマルフローの実践に追加し、心肺機能を上げることを早朝と午後に行ってみたいと思う。このあたりも色々と試してみて、自分の身体を最善の状態にできる常に試行錯誤しながらメニューを組み立てていこうと思う。フローニンゲン:2023/11/20(月)17:20
11369. 対話の持つ力/サイケデリクスに関する構造の改革と土壌の開拓
今日のジムのウォーミングアップをしている最中にふと、毎週末のゼミナールとラジオの収録の場の対話が持つ力について考えていた。どうやら対話にはエネルギーを刺激し、エネルギーを高めるような働きがあるようである。よく対話の後に何かが動き出すような現象があるのだが、それは活動エネルギーと称していいようなものの高まりを表している。活動エネルギーの中でも心的エネルギーの高まりは興味深い現象であり、新たな活動に乗り出す動機が高まったりする現象が起こる。双方向的かつ本質的な対話はどうやら私たちを良き方向に動かしてくれる働きをするようだ。
それ以外には、これは確かジムに到着する直前に降ってきた考えなのだが、当面はサイケデリクスのセッションはセルフ·セッションに留めておくが、法規制の改革に乗り出そうとする自分の深層的な意図、ないしは願いのようなものに気づいた。それは法規制が変わり、それが整うことによって、サイケデリクス業界・サイケデリクス産業が形成され、サイケデリクスに関する学術研究と実践が進化していくことを願っている自分がいるのだと思ったのである。今は端的には日本におけるプレイヤーは絶望的に少なく、日本においてもサイケデリクスの研究や実務に携わる仲間を求めている自分がいるのだと気付かされた次第だ。例えばこれから自分がサイケデリクス学者として研究を進めていくにあたって、確かにもうそれは英語空間で英語を操れる人たちとだけ行っていけばいいと思っている自分もいるのだが、日本語でもそれが行えることに越したことはなく、サイケデリクス研究に従事する仲間が増えることによって、お互いに啓発し合い、サイケデリクス研究が進展していき、それが社会の役に立っていくと思ったのである。なのでこれからはやはり自分がサイケデリック·セッションを提供する必要はなく、それに関心や情熱を持っている実務家に任せ、それよりも自分がやるべきことはサイケデリクスに関する構造の改革であり、土壌の開拓なのである。そのために規制改革に向けた学習を進め、規制改革に乗り出していければと思う。そのようなことを考えた。
それでは今からゼミのコンテンツとして毎日行っている振り返りの音声ファイルを作成し、夕食の準備を始めよう。今日はジムでの相当に追い込んだトレーニングをしたので、夕食はさかし美味しいだろう。夕食後には昨日に出会いのあったオランダ人の哲学者バーナード·カストラップの書籍を購入しようと思う。自分と同じくオランダ在住の彼は30代から真剣にサイケデリクスの摂取を行い、十分にその体験を積み、その体験をもとにとりわけ心の哲学や形而上学に関してユニークかつ洞察の深い思想を展開していることに注目した。今朝方の段階ではまずは自分が関心を持ったユングとショーペンハウアーの形而上学思想に関する2冊の書籍だけ購入しようと思ったが、サイケデリクスの十分な体験を積んだ哲学者の考えは大変興味深いので、既刊の13冊の書籍のうち、単著のほぼ全ての書籍を購入しようと思っている。もう一度書籍の概要を読んで、カストラップの書籍を一括購入したい。それに加えて、オックスフォード大学出版から出版されている形而上学と認識論に関する分厚い論文集も合わせて購入しておきたいと思ったし、神秘主義の観点から心の哲学の難問に挑む意欲的な学術書も見つけたので、それも合わせて購入する予定だ。フローニンゲン:2023/11/20(月)17:34
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