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11131-11136: フローニンゲンからの便り 2023年10月20日(金)



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成人発達理論とインテグラル理論を楽しく学んでいただける「成人発達コラボラジオ」を2023年7月14日より始めました。

タイトル一覧

11131. 風の強い朝に

11132. 風としての自己/名付けと橋渡し

11133. 今朝方の夢

11134. 学問の道と芸術の道/永遠と哲学/永遠なる流れとしての自己

11135. 見取り図と自らの足で歩くこと/状態·構造の交差点とサイケデリクス体験

11136. ケン・ウィルバーのサイケデリクス体験から/サイケデリクス研究における神学の役割


11131. 風の強い朝に


今日もまた早朝より自宅の暖房が頑張って働いてくれている。それはある温度を下回ると自動で入り、適度な温度になったら一度止まるを繰り返す。その健気な働きに深く感謝しながら、朝の世界を眺めてみると、外はまだまだ真っ暗で、そして今日は風が強い。


時刻は午前7時を迎えようとしている段階なのだが、なんと今の気温が今日一番高いという変わった気温変遷を今日は辿る。今の気温は7度で、ここから午後3時頃までずっとその気温で一定であり、午後4時から1度下がり、6度の気温が就寝時間まで続くような形だ。こうした変わった気温の動きを見せるのも、きっと今がこれから本格的に冬に入っていく準備をしているからなのだろう。状態の転移がある時には、こうした不規則な動きを見せるのは何も天気に限ったことではなく、人間の成長にも見られることである。日々の生活において種々のリズムが存在していて、それは多分に規則的である。だが、自分の内面世界の何かは不規則に動くことを求め始めていて、大きな転移の予兆を感じる。それが起こった時、自分はまた今の自分を脱ぎ捨てて、新たな自己として一歩また成長する。


それにしても今朝は風が強い。風速37kmぐらいあり、今はまだ雨は降っていないが、今日は昼前から雨が降るようで、風もずっと強いままなので、午後に中央市場に行くのはやめておこうかと思う。風速が35kmあると傘がひっくり返ってしまって、きちんと傘を差して歩くことができない。雨脚も強いようなので今日は一日中おとなしく家で過ごし、明日もまた市場がやっているので、市場は明日に行くことにする。


明日のゼミナールのクラスを終えて、午後に仮眠を取ったら散歩がてら市場に行こう。明日は風が強くないようなので散歩も気持ち良く行えるだろうし、何よりも今日よりは気温が温かくなるのが嬉しい。


ゼミナールに関して言うと、今週末のゼミナールは第52回なのだが、57回から取り扱う新たな課題図書の解説をした補助音声教材を今日からゆっくりと作成していこうと思う。午前11時まではいつものように好きな書籍を読み進めていき、そこからは補助音声教材をいくつか作っていく。今日は午後に中央市場に行かないこともあって、夕食の前まで音声教材の作成に時間を充てれば随分と多くの教材が作成できるのではないかと思う。こうした教材作りもまた最良のアウトプットになり、今後海外の大学で教鞭をとる際にも説明する力の向上の観点から役に立つだろう。フローニンゲン:2023/10/20(金)07:05


11132. 風としての自己/名付けと橋渡し


驚くほどの強風がフローニンゲンの街を駆け巡っている。それは次の季節への移行に向けた世界の心のあり様を表しているのだろうか。次の次元や段階に飛び込む時にはこれくらいの熱量ないしはエネルギー、さらには動きといったものが必要なのかもしれない。次の次元や段階に進む際には躊躇の感情もあるかもしれない。しかし自分は、この目の前に吹き荒れる風のように力強く足取りを進める。いや、そこで自分は跳躍し、飛躍する。それが自分の飛翔につながるのだ。風は誰しもに対して吹くだろう。しかし、それはひょっとしたらその人のタイミングと状況に応じた形で吹くことも考えられる。つまり私たち側が風を選ぶのではなく、風が私たちを選ぶのである。私たちはあくまでも風から選ばれる存在なのだ。ゆえに自分たちに吹いてきた風に恐れを成す必要はない。むしろそれは幸運の風なのだ。外見上、表面上、それは幸運に思えないこともあるかもしれないが、本質的·超越的にはそれは幸福の風なのである。ゆえに自分はどんな風でも有り難く受け止め、その風に乗って風が進むべきところに進み、着地する。そしてまた新たな風を待つ。自分は風を待つ存在。そして風に乗る存在である。風乗りとしての自己に気づけたことは何かとても大きなことのように感じる。今日という日の朝にこれだけの風が吹いていなければ、そして風音に耳を傾け、書斎の窓の外を眺めて風の様子を見る心のゆとりがなければ、自己がそのような存在だったと気づくことはなかったであろう。風に選ばれ、風に運ばれる存在としての自己。自分の中に確かにある風の性質。それに気づけたことは朝の最大の気づきであった。


サイケデリクス学者としての自己。そんな自己も数ヶ月前まではいなかったのに、今はこうしてそのような自己がいることに驚く。人間という存在は、剥いて剥いても新しい存在が顕現する生き物なのだ。同時に、剥いて剥いても固有の核を奥深くに内在している点も見落としてはならない。サイケデリクス学者として、哲学·科学·神学の巨大な領野に横たわる人類の叡智を活用して自分がやるべきことは、名付けという橋渡し行為だ。サイケデリクス体験やサイケデリクス現象というものは、最終的には常に言葉を超える。だがそこに言葉という名付けをしていくことを虚心坦懐に従事することによって、名付けられた事柄が多くの人の体験を後押しする。それは体験への恐怖の緩和であったり、体験に対して傲慢になることへの戒めだったり、体験から汲み取られる意味の拡張だったり、体験を通じた治癒と変容の増幅だったりと、色々な役割がある。だから自分は、サイケデリクスを通じてその人の固有の宇宙に顕現される事柄が基本的には言語超越的であったとしても言葉を当てるのである。可能なところまで名付けをするという橋渡し行為によって、あとはその体験者がその名付けを出発点にして、自分なりのさらに深い意味や洞察を得ていく手助けになればと思う。そして必要であれば、その体験者は自分の直接体験と洞察を用いて新たな名付けをしていくことを願ってやまない。その新たな言葉がまた別の誰かの体験の橋渡しになるのだ。自分は常にそうした橋渡しとしての役割を謙虚に、全力に担っていきたいと思う。フローニンゲン:2023/10/20(金)08:07


11133. 今朝方の夢


強風からのメッセージを受け止めながら、今朝方の夢について振り返っている。今朝方はぼんやりと記憶に残る夢をいくつか見ていた。


夢の中で私は、見慣れないデパートの中にいた。そのデパートはおそらく海外のどこかの街にあるものだろう。そんな雰囲気が漂っていた。実際に、デパートにいる人たちも外国人が多かった。そんな中、デパートの一角で、偶然にも高校時代の友人(HH)と出会った。彼との再会は久しぶりだったので少しその場で立ち話をしていると、彼の家族も一緒にデパートにやって来ているらしく、今から家族でデパート内のレストランでランチを食べるとのことだった。彼はそのランチに私を誘ってくれた。ちょうど私もお腹が空いていたので、一緒にそのレストランに向かった。レストランに到着すると、彼のお母さんが最初に目に入ったので、すぐに挨拶をした。そこからしばらく雑談をして、メニューを注文しようと思ったら、いつの間にかデパート内の紳士服売り場にいた。その時に、自分は夢を目撃する存在に変わっていた。先ほどまではデパートに確かに自分という存在がいたのだが、サトルボディないしはドリームボディとしての自分はもう夢の中には存在せず、夢を目撃する者がそこにいた。紳士服売り場のある店に若い女性が客として来ていて、熱心にネクタイを選んでいた。おそらく彼氏へのプレゼントだろうか。真剣な眼差しでネクタイを選び、時々笑みを浮かべるその女性の姿はとても微笑ましく、小さな幸福感が目撃者の私の内側で溢れてくるような感じがあった。


そのような夢を見た後に、アメリカの思想家のケン·ウィルバーの思想について誰かと話をしている場面があった。対話相手のその方もウィルバーの思想にある程度精通していたので、対話は速やかに進んでいき、時に深い話になった。相手はこちらに教えを乞いながらも、時々その方が口にする深い洞察に自分も唸り、色々と学ばされることがあった。夢の中でも自分は絶えず学ぶ存在としているのだということを実感した瞬間に目が覚めた。今朝方はそのような夢の世界の中にいた。フローニンゲン:2023/10/20(金)08:42


11134. 学問の道と芸術の道/永遠と哲学/永遠なる流れとしての自己


自分の内側にある学問の道と芸術の道。とりわけそれら2つの道の双方がサイケデリクスを通じてどこまでも果てしなく開かれている。前者においてはサイケデリクスに対して哲学的·科学的·神学的に語ることが自分に要求されていて、言葉を通じてサイケデリクスを多様な形で語っていくことが求められる。一方後者においては、言葉ではない手段でサイケデリクスの世界を形としてこの現実世界に表現することが求められている。今の自分はそのどちらかではなく、両方を行うことに深く突き動かされている。その突き動かしがどこからやって来たのかは説明できない。あえて言えば、無の彼方の無、すなわち絶対無からもたらされたものなのだろう。だから無限に有が生まれてくるのだ。言葉が無限の水流として発出し、言葉にならない音楽や絵画として無限の水流の如く奔流してくる。それが今の自分を通して生じている現象なのだと思う。


かつてバートランド·ラッセルは、永遠を求めることは人が哲学に向かう最も深い衝動の1つであると述べていた。まさにそうなのだろう。自分は永遠を求める衝動の中にいて、ゆえに哲学を愛している。とりわけサイケデリクスに紐付く永遠性に取り憑かれている自分がいることを自覚している。そしてその永遠性の開示とその側面の多様な意味解釈、そしてその永遠性をさらに一歩押し進めた絶対的永遠性に手をかけたいと思っている自分がいるようにも思えてくる。今日の探究活動もまたそれに向けた一歩なのだろう。ヘラクレイトスが述べたように、それは流れなのだ。その流れの中で生まれた言葉はもうそこには留まっておらず、新たな流れに溶けていく。自己もまた絶えず流れそのものして存在していて、2度同じく存在としてはこの現実世界に留まっていられない。永遠が体現された流れとしての自己として生きているという究極的·絶対的な安心感の中で、今日も自分は自らの流れから生まれたものを言葉や言葉ではない形としてこの瞬間に残し続けていく。フローニンゲン:2023/10/20(金)09:10


11135. 見取り図と自らの足で歩くこと/状態·構造の交差点とサイケデリクス体験


つい今し方仮眠から目覚めた。時刻は午後1時半を迎えたが、早朝に引き続き風が強い。そして雨も降っているので、今日はここから中央市場に行くのはやめたほうがよさそうである。今日は一日中家でおとなしく過ごしたいと思う。昨日のジムでのトレーニングを終えてのアクティブレストとしての散歩ができないので、早朝のアニマルフローに加えて、後ほど朝のメニューと同じような形でアニマルフローを行い、それをアクティブレストとしたい。


午前中に考えていたことをまとめておく。インテグラル理論や成人理論を学ぶことは、心や魂に関する詳細な見取り図を学ぶことである。サイケデリクスについて哲学·科学·神学の観点から学ぶこともそれと同様である。一方、サイケデリクスを摂取するというのは、実際に地図上の世界を自らの足で歩くことと喩えられる。見取り図を学ぶだけでは不十分であり、地図上の世界を何の見取り図もなしに単に歩くだけでも不十分である。その双方が人間とは何か、意識とは何か、リアリティとは何かについての考察を深めてくれるのである。


サイケデリクスを自ら摂取する時は見取り図を携えていてもいいし、完全に手放して体験に身を委ねてもいい。サイケデリクス の体験中は見取り図が役に立たないことが往々にしてあるし、そこでの体験は見取り図を超えることもしばしばある。そうしたことからサイケデリクスを摂取する際には見取り図を気にすることなくむしろ体験に没頭することが重要かもしれない。しかし、ひとたび固有の体験を積み、その体験を他者に語る際や他者の体験を聞く際には見取り図と照らし合わせることがサイケデリクス学者の責務だと思う。それができない人はサイケデリクス学者でもなんでもない。


午前中は久しぶりにケン·ウィルバーの“Religion of Tomorrow”を読み返していた。自身にとって5回目の読書であり、この書籍から汲み取れることはいまだに本当に多い。2024年の4月にはおよそ5年ぶりぐらいにウィルバーが新刊を出版する。最新刊も今から楽しみであり、それもまたこれからの自分の肥やしになり続けていくだろう。


ウィルバーが述べる“Vantage Point”という言葉は、状態·構造の交差点を指す。サイケデリクスを摂取する際には、どの状態·構造の交差点でその体験が生起しているのかを眺めると有益だろう。サイケデリクスは全ての状態·構造を開示しうる。注意点としては、自分が今いる段階としての高度を上限にして、水平方向の状態であれば全て開示してくれる。ゆえにサイコセラピーと絡めてサイケデリクスを活用するやセラピー目的でサイケデリクスを摂取することには意味がある。もちろん気をつけなければいけないのは、過去に積み残しになっている発達課題に対応した発達段階に後退し、そこでトラウマが強く生起してくる場合もあることだ。だがそれもまたその課題と向き合い、治癒をする格好の機会を提供してくれると捉えることもできる。サイケデリクスはこのように、心·魂の現時点での発達高度までの全ての状態·構造の交差点における現象を生起してくれるのである。そこに治癒と変容の大きな価値が内包されている。フローニンゲン:2023/10/20(金)13:38


11136. ケン・ウィルバーのサイケデリクス体験から/

サイケデリクス研究における神学の役割


時刻は午後5時を迎えようとしている。引き続き強風が吹き、雨も仕切りに降っている。部屋の温度が下がる都度、暖房が自動で入る状態が続いていて、それは外の気温の低さを物語っている。


今日はサイケデリクス哲学に関する動画を隙間時間に視聴するのを離れ、ケン·ウィルバーのインタビュー動画を隙間時間に視聴している。その中でウィルバーが自身のサイケデリクス体験について語っている箇所が興味深かった。ウィルバーに多大な影響を与えたアラン·ワッツやオルダス·ハクスリーはメスカリン体験をきっかけとしてサイケデリクスの探究に向かった。とりわけウィルバーがロールモデルとしたワッツは、自身のサイケデリクス体験と仏教の禅の体験を含めた神秘体験の類似性を明らかにした。ウィルバー自身はかつてアヤワスカを摂取したことはないと述べていたが、LSDについては3回か4回ほど摂取したことがあると数ヶ月前のこのインタビューの中で述べていた。LSDの摂取によって無意識の深い部分からシャドーが現れ、そのワークをすることには意味があり、LSDが知覚させる光の体験も意味があったと述べていたが、ウィルバー 自身はそこからはもはやLSDを含めたサイケデリクスを摂取しなくなり、瞑想一本で意識探求を進めていった。かつて「アヤワスカを摂取したことはない」と述べていたことを「サイケデリクスを一度も摂取したことない」と混同してしまっていたようで、やはりウィルバーもまたサイケデリクスを体験し、その体験をもとにして意識に関する精緻な地図を作っていたことがわかる。後ほど夕食を作っている最中も引き続きこのインタビュー動画を視聴しようと思う。


今日の取り組みもまた自分の使命·天命に従うものだった。新たな事柄を知覚し、それを言葉にすることは進化への寄与なのである。今後のサイケデリクス体験やサイケデリクス研究で明らかになった事柄を言葉にしていくことは、コスモスの進化への貢献活動だという意識が強く芽生えている。その思いをもとに明日からもまた研究と実践に明け暮れたい。


各種の宗教に横たわる神学の役割について。それは、神と表現される非二元の世界の摂理を解き明かすことにある。神学のそうした役割はどんな宗教でも共通である。いずれの宗教も非二元の世界を描写し、その世界の教えを根本原理としているのだ。サイケデリクスが開示する非二元の世界の地図の制作に神学が欠かせないのはそうした理由による。だから自分は今年HDSに出願するのである。無事にHDSに進学することができたら、そこでは様々な宗教を通して非二元の世界について学びを深めることができるだろう。その学びがサイケデリクス体験を導く地図の制作につながっていく。フローニンゲン:2023/10/20(金)17:08

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