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10259-10264: フローニンゲンからの便り 2023年4月28日(金)



No.4695 フィレンツェの静謐さ_Serenity of Florence


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本日の3曲


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タイトル一覧

10259. 目の前の変化/今後の旅の計画

10260. 新たな眼を持って/今朝方の夢

10261. 今朝方の夢の続き

10262. サウンドスケープへの意識/オランダ永住権を無事に取得して

10263. 愛犬からの贈り物

10264. この巨大な宇宙の中で


10259. 目の前の変化/今後の旅の計画


フローニンゲンに戻って来ての初日が始まった。昨日にフローニンゲンに戻って来たので昨日を初日と計算しても良かったが、目覚めてからの1日を初日としてみたかった。10日間ほど自宅を空けていただけなのだが、書斎の外に見える窓の景色が随分と変わっていることに驚く。端的には、より緑が増した世界が目の前に広がっている。一番近くにある木はまだ裸のままだが、それ以外の木には葉っぱが茂り始めている。また、冬の時代に車庫の上に敷かれた土の上にも芽が出て、緑色になっている。こうした変化はしばらく自宅を離れていたから気づけたのだろう。日々ずっとそれに接していると、対象の変化に気付きにくいのだ。日々対象に触れながらその変化に気づくためには、余程注意深くそれを観察しなければならない。身近な人の変化に気づくためには、そうした努力が必要なのだろう。それを努力と感じないためには愛がいる。愛情がそこにあれば、その人の変化を見ようと意識しなくても、それが自然に目に入って来るものなのではないかと思う。それであれば、自分が家の目の前の変化に気づきにくくなっていたというのは愛情の欠如なのだろうか。そうだとしたら反省せねばなるまい。目の前の景観に慈しみの念を持って接することを毎日行いたいものだ。


昨日は国王の日という祝日だった。フローニンゲンの町にもオランダ国旗が掲げられている姿をよく見たし、オレンジ色の衣装に身を包んだ人や、オランダの国旗を顔にペイントしている人も多く見かけた。そんな国王の日のフローニンゲンは、小鳥の鳴き声で満ち溢れていた。家に戻って買い物に出かけると、町が祝日の陽気な雰囲気に包まれているだけではなく、どこか平穏さと幸福さにも包まれていたのである。それに触れた時、自分はやはりこの町が最も落ち着く場所なのだと思った。そこからもしかしたら6月と8月の旅行の計画を変更して、片方だけに出かけていくのがいいかもしれないと思った。フローニンゲンでの日々の生活がとにかく充実しているし、自宅以上に寛げる場所はなく、また足を運びたい美術館も減って来たことから、ミュンヘンとプラハへ行くのは来年に回し、6月と8月の中間を取って7月にスイスの避暑地でゆっくり過ごすのもいいかもしれないと思った。その時には、トーマス ·マン、ヘルマン·ヘッセ、そしてニーチェが避暑地として選んだシルス·マリアにも滞在したい。また、久しぶりにノルウェーに行ってみたいという思いも湧いて来て、今年の年末はマドリードとポルトで過ごす予定だったが、極寒のノルウェーの自然の中で年越しをするのも良いかもしれないと思った。この点についてはまた計画を練ってみよう。フローニンゲン:2023/4/28(金)07:11


10260. 新たな眼を持って/今朝方の夢


小鳥たちの清澄な鳴き声。それはいつも自分の心を深く落ち着けてくれる。それはこの世界を祝福していて、祝福の歌声に耳を傾けていると、自分の人生と存在もまた祝福されているかのようで嬉しくなる。


昨日フローニンゲンに戻って来たのだが、帰って来た夕方に家の庭の雑草の掃除をした。10日間ほど自宅を空けていると、玄関の外の石畳に雑草が雑草が随分と生えていることに気づいたのである。そこには雑草だけではなく、どこからか飛んできたタンポポの種が花を咲かせていた。それを刈り取るのは残念だったが、その美しさを目に焼き付けてから、また来年も花を咲かせてもらえるように祈ってタンポポを含め、全ての雑草を刈り取った。家の外だけではなく、家の中を旅から帰った新たな目で眺めてみると、窓枠の汚れも目についてのでそれも綺麗にしておいた。とりわけ窓枠の汚れはこれまで気づかず、旅に出かけたことによって家を新鮮な目で見れたことがそれに気づかせくれたのだと思う。旅は日常の生活を通じて凝り固まってしまった眼をほぐしてくれる。それは肉体の目だけではなく、心眼、魂眼、霊眼の全ての次元に及ぶことは言うまでもない。こうして自分はまた新たな眼を持って日々を生き直し始めた。そのきっかけになったのは間違いなく旅である。1つ前の日記で書いたように、もはや大きな町に行くことは少し飽きてしまい、魅力が失われたので、ミュンヘンとプラハに行くことは先延ばしにし、その代わりに7月のどこかのタイミングでスイスのアスコナ、ドルナッハ、そしてシルス·マリアに行ってみよう。アスコナは霊性学徒たちが集ったエラノス会議が開催されていた場所であり、ドルナッハはシュタイナーが作った精神科学自由大学がある。そしてシルス·マリアは、トーマス ·マン、ヘルマン·ヘッセ、ニーチェが避暑地として滞在していたことで有名である。それらの場所でゆっくりと寛ぎながら、大学院に出願する志望動機書を執筆したり、書籍の翻訳プロジェクトを進めていくのも良いかもしれないと思う。


そのようなことを考えていると、今朝方の夢の断片を思い出した。夢の中で私は、見慣れない建物の中にいた。そこは学校のようでもあるし、デパートのようでもあった。どちらかというと学校寄りの雰囲気を発している建物の中で、あてもなくぶらぶらと歩いていた。すると突然、便意を催したのでトイレに駆け込んだ。すると、男性用のトイレにはなんと個室がなく、とても焦った。厳密には個室はあったのだが、扉を開けてみて驚いたのは、便器がなかったのである。和式でも洋式でもなく、本当にそこには何もなく、あったのはトイレットペーパーだけだった。これは困ったと思った時に誰かがトイレに入って来た。私は息を潜めて個室の中にいると、個室の上からその男性が中を覗いてきた。プライバシーの侵害だと思って睨みをきかせようと思って見上げると、小中高時代の背の高い友人(HY)だった。彼は悪気があって個室の中を覗いたわけではなく、私と同じく個室の中が気になって覗いてみたとのことだった。結局便器がないのでどうしようもないと思って個室の外に出ようと思ったら、ズボンの中に違和感を覚えた。彼は先に外に出て行ったので、その場ですぐにズボンを脱いでみると、気づかないうちに脱糞していたようだった。一瞬それをショックに思ったが、ズボンの中には人参の中ほどの大きさの15本ぐらいの綺麗な便が転がっていて、ズボンを逆さにすると、それがポトポトと落ちてきた。すると、足元に突然和式便器が現れ、それらの便は便器の中の水に全て落ちていった。幸いにもズボンに汚れも臭いもなく、私は再びズボンを履いてトイレの外に出ることにした。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/4/28(金)07:30


10261. 今朝方の夢の続き


時刻は午前8時を迎えた。今日は風もなく、とても穏やかである。風がない分、小鳥たちの鳴き声がより鮮明に聞こえて来る。今はキッチン側の外に小鳥が1羽いる。ここ最近はより一層感覚が研ぎ澄まされているような気がしていて、夜寝る前に瞑想をしていると、瞑想用の音楽がより深く内側に入り込んでいくような感覚がある。感覚が研ぎ澄まされていることは、実は学習上においても大きな力を発揮している。それこそ、GREの語彙を覚えている時にも、感覚の鋭敏化を通じて身体的にその語彙を習得しやすくなっている。また、実際に問題を解く際にもそれは集中力の高度化として具現化しており、問題を解く精度も高まっている。詰まるところ、学習や実践の発達においては感覚の涵養が不可避に伴うため、感覚側が研ぎ澄まされればされるだけ、学習や実践の発達を導くという関係があるのだろう。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがある。夢の中で私は、中学生の頃に実際に生活していた社宅にいた。そのアパートは4階建てで、敷地内にはいくつかの棟があった。私は通っていた中学校に一番近い棟に住んでいた。


時刻は朝であり、朝目覚めると、父が朝食を作ってくれていた。何やら具沢山のうどんを作ってくれているらしく、横で母も少し手伝いをしていた。朝からしっかり食べるのは久しぶりだったし、これから部活の朝練があるので、食べる量には少し気をつけようと思った。時刻はまだとても早かったので、もしかしたら今から少し朝練をして、そこから自宅にまた戻ってきてから朝食を食べるというのでもいいかもしれないと思った。


窓の外を眺めると、すでに何人かのメンバーがバスケの屋外コートで朝練をしていた。大抵は同じ学年の友人たちだったが、中には後輩も数人混じっていた。自分はキャプテンとして早く参加しようと思ったが、うどんを今から食べるのかどうかでまだ決断ができておらず、どっちつかずの状態にあった。父がせっかく丹精込めてうどんを作っている姿を見ると言い難かったが、後からまた戻って来るので今から朝練に行って来ると伝えた。父は特に残念がる表情を見せず、そうかと述べて自分を送り出してくれた。


いざコートに到着すると、紅白戦で盛り上がっていた。私は同じ学年のメンバーが多い方ではなく、あえて後輩が多い戦力的に弱い方に加わった。相手チームには私を除くスタメンメンバー4人がいたが、正直なところ、自分1人でも彼らに勝てると思ったので、今日はそれを明確に示そうと思った。紅白戦の続きが始まってみると、案の定、相手チームにはボールの運び手が欠けており、ゴール前まで行くことが難しいようだった。一方、こちらのチームは自分が司令塔になることによって、みんな気持ちよくプレーしており、得点をどんどんと積み重ねていった。相手チームに苛立ちが募っているのが見え始めたので、ダメ押しとしてオールコートプレスを仕掛けることにし、相手のゴール下からのリスタートのボールをすぐに奪って得点を重ねることが続くと、副キャプテンの友人が怒りを露わにし、こちらのプレーがルール違反だとイチャモンをつけ始めた。彼曰く、最近テレビコマーシャルで穏便に事を運ぶことを推奨する言葉が流行っているらしく、社会はそれを規範として動いているため、その規範に則ったプレーをしなければならないとのことだった。一体彼は何を言っているのだろうかと思い、そもそもそんなものがバスケのルールにはなっていないし、勝手にルールを変更することもおかしなことだと思ったので、彼の言い分に反発した。ルール違反でもなんでもないプレーに文句を言われたことが自分の癇に触り、彼は引き続き不満そうな表情と不平を述べていたので、見せしめとして彼をその場でボコボコにすることにした。ジークンドーの手技は封じたまま、蹴り技をいくつか食らわすと、彼はもうその場に立っていられなくなり、地面にうずくまっている彼の顔をまた踏みつける形でとどめを刺した。そこで私は、「早く病院に行ったほうがいいよ」と彼に優しい言葉を掛けた。一部始終を見ていた他のメンバーたちは、幾分戦慄を覚えているようでその場に固まっていたが、私がまた穏やかな声で「さぁ、続きをしよう」と述べると、彼らはその言葉に従って再び試合の続きをすることになった。フローニンゲン:2023/4/28(金)08:38


10262. サウンドスケープへの意識/オランダ永住権を無事に取得して


ランドスケープという土地の景観があるのと同じく、サウンドスケープという音の景観がある。前者は目で見えるものだが、後者は目では見えない。人間は視覚優位な生き物であるため、どうしても前者にばかり目が向きがちだが、現代の騒々しい社会の中にあってはサウンドスケープを見つめ直す必要があるのではないかと思う。今自分を取り巻いているサウンドスケープは大変落ち着いていて美しい。確かにフローニンゲンはオランダの中規模の町ではあるが、市の努力とここで暮らす人たちの精神性が相まって、静かで美しいサウンドスケープがこの町に体現されている。この間イスタンブールとコンヤに訪れた時、サウンドスケープの観点で言えばコンヤの方が圧倒的に優れていた。今回訪れたローマとフィレンツェであれば後者に軍配が上がる。おそらく町の規模を拡大してしまうと、どうしても人間が生み出す諸々のノイズの絶対量が増えてしまうのだろう。そうならないように工夫し、成功している大都市があれば見てみたいものだが、今のところそうした都市とは出会っていないように思える。自分の中で成功に近いと思うのは北欧の諸都市だろうか。自分が北欧諸国での生活を望むのも、そこが単に政治·経済·教育上優れているという理由だけではなく、また自然が多く美しいというだけではない。そこには穏やかで美しいサウンドスケープがあるからなのだ。そのようなことに気づく。


昨日自宅に戻ってきて郵便受けを確認すると、3通ほど政府から文書が届けられていた。そのうちの2通は移民局からのものだった。今回の文書はやたらと長いセンテンスのものが多く、オランダ語を英語に翻訳しながら読み進めていくと、最初に気づいたのは、残念ながら欧州永住権の取得に至らなかったことだ。そこで残念に思ったのも束の間、続く文章ではオランダ永住権の方は付与されたことを知って喜んだ。どちらもオランダでの連続5年間の滞在が1つの条件になっている思い込んでいたのだが、条件に見落としたあったようだった。何やら欧州永住権の方は、学生期間の2年間は半分の1年間としてカウントされることを知っていたが、大学院を終えた後の1年の自由な期間は滞在の1年にカウントされないということは知らなかったのである。オランダ永住権の方は、滞在ステータスに関係なくその期間も1年の滞在にカウントされるとのことで、5年間の滞在の条件を満たしているとのことだった。オランダ永住権の取得のためには、TOEFLやIELTSのようなオランダ語の4技能を試す試験に合格しないといけないのだが、自分の場合はフローニンゲン大学での2年目のプログラムがオランダ語で実施されていたということになっていたので、オランダ語の試験は免除された。高校以上の学位をオランダ語で取得していれば、この試験は免除される。いずれにせよ、無事にオランダ永住権を取得できて嬉しく思う。今週末にでも、ズヴォレの移民局を訪れる予約をオンラインで行っておきたい。先日にIELTSの試験のためにズヴォレに訪れたばかりだし、旅行から戻ってきたばかりなので、再来週ぐらいに訪れる予約をしたいと思う。永住権を受け取る際に、仮に来年からアメリカに戻ることになった場合に、永住権の更新はどのようになるのかを確認しておきたい。今知っている範囲のことで言えば、オランダから半年以上離れて生活すると、10年後の更新は自動でできないとのことだったが、その際の居住ステータスがどのようになるのか、自動で更新できないだけで何か他に手段があるのかを確認したい。フローニンゲン:2023/4/28(金)09:05


10263. 愛犬からの贈り物


何かを流す雨。何かを浄化していく雨。そんな雨が天からしとしとと降っている。天気予報の通りとなった。午後にジムに出かけていく際には雨はまだ降っておらず、ジムに到着する間際で小雨がぱらつき始めたぐらいだった。昨日が国王の日ということもあり、オランダ国民は休日を謳歌しているようで、その様子がオランダ人ではない自分にもそれが伝わってきて、自分もまた国王の日からエネルギーを分け与えてもらった気がする。そんな日から一夜明けると、オランダはまた日常世界に戻っていた。神道的な意味でのハレとケとはまた違うのだろうが、オランダにおいても休日を挟むとそれらしきものを感じる。どうやら精神の回復が求められ、それを行う工夫というのは普遍的らしい。


実は今日は残念な知らせを受けた。昼前にメールを確認すると、父からメールがあって、愛犬が17歳と2ヶ月の寿命を全うしたとのことだった。父曰く、愛犬は今朝方の7時45分頃に天に召されたらしい。その時間は、オランダで言えば昨日の夜で、時刻として自分がちょうど就寝する時に重なっている。もっと言えば、その時間はちょうど夜の瞑想を終えたタイミングなのではないかと思う。父からの知らせを受け、愛犬との思い出について振り返っていた。今でもまだ愛犬がこの世からいなくなってしまったという事実を受け止められないでいる。ジムに行こうと思ったのも、愛犬の死について考え過ぎないようにするためだったという側面もあるが、結局ジムの中でもインターバルの最中は愛犬のことしか考えていなかったように思う。それだけ愛犬と過ごした時間は自分にとって深いものであったし、とても貴重なものであった。であれば、17年2ヶ月毎日過ごしていた両親はもっと思うことがあるのだろうと考えると、両親の心の痛みも感じられるようで、愛犬を失った自分の中の心の痛みと両親の心の痛みの双方を受け止めている自分がいた。亡くなる前から愛犬の体は弱ってきていて、いつその日がやって来るかはわからない状況だった。この間の秋に一時帰国した際にも、愛犬はもう尻尾を振るような元気もなく、ヨタヨタと自分のところに近寄ってきて、またヨタヨタとどこかに去っていくようなことが続いていた。愛犬の死を受けて、死を超克することを希求するトランスヒューマニズムについて必然的に考えていた。死には意義や価値はあるのだろうか。そして、それを認めていいのだろうか。逆に不死に伴う意義や価値についても内省を要求される自分がいた。愛犬の死を受けて、このテーマはさらに自分にとって重要なものとなり、これからトランスヒューマニズムについて世間にその考え方を伝えていく上で、このテーマは愛犬からの贈り物として受け止めたいと思う。フローニンゲン:2023/4/28(金)17:37


10264. この巨大な宇宙の中で


今日は正午から2時間ほど、知人の阿世賀淳さんと芸術の持つ意味や意義、そして芸術の力についての対談イベントを行っていた。この対談イベントの前に、手持ちの今道友信先生の書籍を読み返してみたところ、今道先生が美学と倫理学の双方を含んで超える優れた価値学者であったことに改めて感銘を受けた。今道先生は、世間一般には美学者として見なされているが、先生の仕事は美学に留まらず、倫理学を包摂して価値学に及んでいたのである。今日の対談の中でも美学と倫理学の話題が出たし、価値学という言葉も自分から出した。それぐらいにこの学問は自分にとって大切なものだと言える。7月あたりに予定している出版記念ゼミナールでは、美学と倫理学の副読本を準備して、それらを通じて成人発達理論と成長疲労社会についてより本質的な理解を獲得し、書籍に書かれていることを超えた成長疲労社会へのさらに有効な処方箋を考えたい。


本日の阿世賀さんとの対談で刺激された事柄は多岐にわたる。今はあえてそれをここに言葉にせず、明日以降の日記の中で少しずつそれらの点を言葉にしていきたいと思う。先ほどの日記でも書き留めていたが、トランスヒューマニズム、倫理学、美学というのは自分の中で大きな柱となっている探究事項である。いずれにも死の問題が関係していて、愛犬の死を受けて、それらへの関心は高まるばかりである。家族と同じであった愛犬の死がこうした喪失感を自分にもたらしていることを考えると、親友や家族などの大切な人を失った時の喪失感はいったいどのようなものなのだろうかと考えてしまう。自分の中で、死というは物理的な世界からの卒業であって、他の次元においてはその存在は永遠に生き続けていくとう考えがあったとしても、やはり実際に大切な存在がこの物理的な次元からいなくなってしまうことに伴う喪失感は騙しようのないものである。人間にとって、死が持つ実存的·霊的な意味についてより深く考えていかなければならない。偶然にも、再来週のゼミナールからは死生観について扱っていく。これもまた愛犬による導きなのだろうか。愛犬の死の知らせを受けて、自分は何かを埋め合わせるかのように、愛犬を思い出しながら彼を天国に送り出す音楽を作っていたし、今夜もまたそのための絵を描くかもしれない。自分にとっての死、人間存在にとっての死、この社会での死の扱われ方についてずっと考えている自分がいる。


目の前の雨はまだ降り続けている。だがその雨は明日には止む。しかしまたいつかそれは降るだろう。そしてまた晴れの日がやって来るだろう。自分の命も他の命もまた、この巨大な宇宙の中で流転を繰り返す存在なのだろう。そして1つ1つの命は、その流転現象を根底から支えるなくてはならない本当に貴重なものなのだと思う。そうであらねばならないし、そうあって欲しい。フローニンゲン:2023/4/28(金)17:54


本日の自由詩(free verse)

No.2912, An Elysian Moment

An Elysian moment is now open.

Its openness is quite empyrean.

There are invisible but palpable ladders to heaven.

Groningen; 08:04, 4/28/2023


No.2913, An Eternal Peaceful Sleep

May you have an eternal peaceful sleep.

I just sincerely pray for it.

May God bless you forever.

Groningen; 10:42, 4/28/2023


No.2914, After Lugubriousness

What will come after lugubriousness?

Profound light would come after deep sorrow.

Groningen; 20:06, 4/28/2023

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